今読んで頂いた聖書の箇所は、礼拝後の分級で学ばれる11―32節に亘る「ある人に、ふたりのむすこがあった。」という言葉で始まる物語と深い関わりがある。共通しているのは、失われていたものが見つかった、見出されたことの喜びが譬(たとえ)というかたちで語られている点である。
ここで語られている羊の譬を理解する上で、まず大切なことは、只羊が百匹いるということではなく、一匹一匹の羊が集って百匹いるということである。そして、その一匹一匹が羊飼いにとっては掛替えのないものであったということである。 だから、その中の一匹がいなくなった時、羊飼いは、その一匹をそのままにしておくことが出来なかった。「その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。」(4)とある。
この譬の意味は、神の前での私たちも同じだということである。どんなに多くの人がいても、私たちを創られた方は、私たちを一人一人としてお心に留めていて下さる。また、そのことのために、御子イエスは十字架にかかられるというかたちで、私たちそれぞれを、神の前に執り成して下さっているということである。
次に、銀貨十枚のうちの一枚をなくし、それを見つけるまで捜す、ある女のたとえも、その意味するところは同じである。
また、よく知られた「放蕩息子」のたとえ(11―32)の中で、怒りと不満に捉われている兄息子に対して、父親が「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。………」と言って聞かせるところがある。どのようなかたちにせよ、神は私たちを愛していて下さるが、やはり、神と共に歩み、労することの中に、人としての人生の確かさ、大切さがあるということである。
私たちの中の誰もが、神の望まれるようなかたちで人生を生きられるとは思えない。十人十色という言葉もあるが、神の戦士として働く人もいれば、かろうじて繋がっているという人もいる。しかし、私たちがこの譬から学ぶべきことは、一人一人が神の前に大切な存在として置かれているということである。私たちはともすると、百匹の羊を百匹という数や量で考えがちである。いくらでも代りがあるかのように思ったりする。そして、迷い出た一匹の羊を見つけるまで捜し歩くことの意味や効率に捉われたりするが、主イエスがここで語ろうとしておられることは、この私を求めて下さっている方の存在を覚えなくてはいけないということである。
しばらく前のことになるが、長い間消息の分からなかった息子が、テレビ局の協力でシンガポールか何処かの港町で板前をしているということが分かり、小柄で白髪頭のおばあさんが、その息子を訪ねて、何十年ぶりかで再会するという番組があった。息子は現地の女性と結婚していて、既に二人の子どももいた。「何故今まで連絡しなかったのか」と聞かれて、彼は「成功したら帰るつもりだった」と答えていたが、現実にはその日暮らしに近い様子だった。
もし、母親がテレビ局の力を借りてでも動かなかったら、息子のことは分からないまま死んでしまうことになったかも分からない。子どもというのは親が子どものことを思う程には、親のことを思わないのではないか。比べることは出来ないが、神と人との関係も同じように思われる。ここでは迷い出た羊と失われた銀貨の譬になっているが、実際、失われたものが、自分は失われたものだということを、どれだけ意識するであろうか。
旧約聖書の中に、一度読んだら強烈な印象に残る箇所がある。それは、エゼキエル書37章で、預言者が幻の中で見た骨の谷の話である。枯れた骨に神が言葉をかけられると、骨と骨が音を立てて組み合わされ、筋ができ、肉がつき、息を吹きいれられると生きたものとなった、とある。普通では考えられないことである。
しかし、谷底に散らばっていた骨自身はそういう自分の姿を意識していなかったと思う。ここでは「いたく枯れた骨」(2)とあるが、見た目に麗(うるわ)しく、また非常に魅力的で、安定した生活をしている人たちが私たちの回りにいくらでもいる。神の目にその人たちが失われた存在であるということは、本人は勿論、誰も考えられないことである。
その人たちは聖書が語っている神を、自分の創り主として認めることは出来ないし、殆ど考えてみることもないと思われる。私たちが声をかける術(すべ)もない程である。自分の身内にしろ、親しくしている人たちにしろ、そういうことは実際にある。しかし、「神の愚かさは人よりも賢く、・・・」(Tコリント1:25a)、「この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。」(同3:19a)とあるように、私たちは、神を全く必要としないこの世界に、神がイエス・キリストを通して御自身を現わされたこと、世界はまさにこの事実によって、全てはその中に存在していることを私たちは心に留めたい。
聖書の物語でも、羊飼いが九十九匹の羊を残して、迷い出た一匹の羊を捜しに出かけたというと、私たちはまずその表現に心を奪われる。九十九匹がまた迷い出たらどうなるか、九十九匹を一体誰が見ていたのか、心はそのように動く。
「譬」というのは、話す人が自分の伝えたいと思うことを相手に分かりやすくするための方法として用いるものだから、あれこれ思って考えると、本筋からはずれてしまう。主イエスがこの「譬」で伝えようとされたことは、神の前での一人一人のことである。迷い出た一匹の羊が見出された時、失われた一枚の銀貨が見つかった時の譬で語られているのは、迷い出たまま立ち帰ることが出来ないでいる、そのことすら分からないでいる人間の姿である。
主イエスがこのたとえを語られた事情が1―2節に記されている。話を聞こうとして集ってきた「取税人@」(新共同訳では「徴税人」)や「罪人たちA」というのは、ローマ政府の手先になって、あくどい金儲けをする人@、律法を守らない人A、という意味で、当時のユダヤ人社会から疎外されていた人たちである。
また、そこに居合せ、イエスに対して「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」とつぶやく「パリサイ人や律法学者たち」というのは、ユダヤ人社会の中で指導的な立場にあった人たちである。彼らは「取税人や罪人たち」を、その宗教的な理由から蔑視し、交わることをしなかった。
同じ人間でありながら、相手を下に見るということは、この時代に限ったことではない。百匹の羊、十枚の銀貨の譬から、それは単なる数のことではないと言ったが、人は一人一人として神の前に創られたものであるということ、また、私たちが神に立ち帰る事は,天で大きな喜びがあることだということを是非心に留めたく思う。
「わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、『わたしはここにいる、私はここにいる。』と。 イザヤ65:1