新しい民として

57道を進んで行くと、ある人がイエスに言った、「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」。 58イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。 59またほかの人に、「わたしに従ってきなさい」と言われた。するとその人が言った、「まず、父を葬りに行かせてください」。 60彼に言われた、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」。 61またほかの人が言った、「主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを言いに行かせてください」。 62イエスは言われた、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。
ルカによる福音書 9:57-62

今日は、ここに登場する三人の人たちを通して、主イエスに従うとはどういうことかを学ぶことにする。まず、57節「道を進んで行くと」とある。この出来事は、主イエスがエルサレムに向かわれようとする、つまり、十字架への道行きの途上で起った。最初に登場する「ある人」は、主イエスを取り巻いていた群衆の一人であったと思われる。

彼は突然、イエスの方に身を乗り出して、「どうかわたしを、あなたの弟子のひとりに加えて下さい。あなたが行かれる所なら、どこへでも従ってまいります」と申し出た。主の弟子になるということがどういうことか、充分考え、覚悟した上で言った言葉かどうか分からない。

恐らく、大勢の人たちに取り囲まれて、神の国のことを語っておられるイエスのお姿に感動し、「この人について行こう。この人なら自分の将来を託しても大丈夫だ」という、そんな気持の高まりの中で発した言葉のように思われる。58節、イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。「人の子」というのは、イエス御自身のことである。

当時、ローマの支配下にあったユダヤの人たちの中に、自分たちの国を建て直す指導者を待望する気持が強かった。メシヤという言葉は、そういう政治的な意味で使われることが多かったため、それと区別されてのことか、主は御自分のことをよく「人の子」と言われ、それも、「苦難を受ける」ことと結びつけて使われている。わたしに従うというのは、そういうわたしと生活を共にするということであって、一時的な感動や、自分の気持を拠り所にして出来るものではないということを、イエスは彼に教えておられるのである。

次に59節、またほかの人に、「わたしに従ってきなさい」と言われた。するとその人が言った、「まず、父を葬りに行かせてください」。この人は主イエスから、「わたしに従ってきなさい」と、声をかけられながら、はいと言えないでいる。この時の彼の気持は、「従っていきますが、そういう気持は充分ありますが、まず、父の葬りに行かせて下さい」ということだった。父の葬り、親の葬式というのは、特別なことと考えられていた。それは今日でも同じである。どんな職業に就いている人でも、「親が死にましたので」、「親の葬儀がありますので」と言えば、そこから身を引くことが出来る。

イエスが生きておられた当時のユダヤの社会でも、父を葬るということは、親を敬うという教え、戒めを守るという点からも、きわめて大切に考えられていた。葬儀の期間は、きめられた律法の学びや、掟を守るということからも免除される程、特別に考えられていたようである。しかし、この時のイエスのお言葉は「その死人を葬ることは、死人に任せておくが良い。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」(60)ということだった。つまり、主イエスは親を葬ることの大切なことをわかられた上で、尚、自分に従ってくること、神の国を告げひろめよということを言われたのである。

ここは誤解を生じやすいところで、キリスト教は冷たいとか、親を大切にしないとか思われたりするのは、おそらくこういうところではないか。これは父の葬りを軽視して言った言葉ではなく、まず、神を神として、主を主として覚えることの大切さをわからせるために言われた言葉である。私たちの現実は、大事なことが順序よくそこに置かれているということでは必ずしもない。ある場合は、そういうものが一緒になって、私たちに優先権を要求してくる。しかし、むしろそのような時こそ、主の前に困惑し、分裂した自分を、その状況とともに差し出し、委ねていくことが大切である。

これは事柄を成り行きに任せるということとは違う。60節の「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」とは、言葉通りには受け取れないし、かと言ってこれを、比喩として読むと意味が通じなくなる。初めの「死人」というのは、文字通り死んだ人のことであり、後者のそれは、神との関係のないところで生きているその家族・親族等を意味する(岩波書店刊、新約聖書Uルカ文書註)。

パウロはその状態を「むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ……」(ローマ6:13)と記し、また「あなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって」(エペソ2:1)と形容している。(他に「あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる」ヨハネ黙示録3:1、「生けるしかばね」Tテモテ5:6等)。

しかし、主は彼に「死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」と語られたそのすぐ後で、態度を決めかねている彼に、「あなたは」と言っておられる。つまり、神と関係のないところで生活している人たち、この世のことだけに捉われて生きている人たちと区別されて、あなたはすでに恵みを知った者、そのいのちに移された者として、ここから出て行き、神の国とその御支配を人々に告げ広めなさい。これがあなたに与えられている務めなのだと言っておられる。

現実の生活の中で、神を神として、主を主としていくということは、そうでない人たちから見れば、いかにもこの世のことを軽んじているというふうに思われるかもしれないが、私たちは、むしろこの世のことを真剣に考え、一人一人のことを大切にしていくために、まず、主との関係に自分を置くことを求められる。私たちがイエスを主と告白してバプテスマを受けるということは、イエスのいのちに合わせられるということであるが、それは、古い私に死んで、イエスの甦りのいのち、新しいいのちにつながれて生きる者となるということである。

この世のことに対して、私たちは無責任であってはならない。私たちはもう一度、イエス・キリストにあって生きている、否、生かされていることの意味を、具体的な毎日の生活の中で、考えていくことが大切である。

先程、「父の葬り」がユダヤの社会では特に大切に考えられていたと言ったが、現実に何を大切にしているかという意味では、いろんなものが、「父の葬り」にとって代わってはいないか。現実に今、自分が毎日の生活の中で大事にしていること、そのように考えているものをそこに置き換えて考えていきたい。私たちは、家族のことや仕事のこと、あるいは対人関係や自分のことを持ち出すことによって、イエスに聞いて従うことを、後回しにしているということはないか。

ここにもう一人の人のことが記されている。61節「またほかの人が言った、『主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを言いに行かせてください』。62節「イエスは言われた、『手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである』」「手をすきにかけて」というのは、農夫がすき(牛などに引かせて畑を掘り起こす農具)を扱う時のことを言ったものである。

「うしろを見る者は」の「うしろを見る」という言葉には、「見続ける」「見ることを繰り返す」という意味があり、一度すきを手にした者は、そういうことはしない。しかし私たちはともすると、丁度エジプトを脱出したイスラエルの民が、荒野で、「エジプトに奴隷として留まっていた方がよかった」と、つぶやいたように、自分の出て来たところや、過去の習慣に引かれることがある。しかし、神の国とその約束は、前方に広がっているのであって、後にはない。私たちは既にその事実に触れ、導かれているのだから、前進して、より真実に近づくことが大切である。

今日の宣教題を「『まず……』の中味」としたが、私たちにとって一番大事なことは、神から覚えられている者として、どう生活していくかということである。私たちの生活はともすると、自分を中心にして見る、聞く、感じるということに価値観を置いていく。しかし、神との関係を中心にしていくならば、新しい価値観が私たちの生活を大きく広げ、自由にしていく。そして新しい価値観こそ、私たちに与えられているものである。

先日、春日井に保田井先生御夫妻をお訪ねした。美代子夫人が別れ際に、「私たちは70年、無我夢中で伝道してきました。しかし、この歳になって、キリストを本当に身近に感じています。今までそうでなかったというのではありませんが、キリストが、私があなたを選んだのだと言って下さる。選ばれたのだということを真実に感じています。」ということを言われた。御夫妻のところをお訪ねすると、何か不思議な平安を覚えるのはこうしたことかも知れない。こうして、一つ会堂で礼拝に与っている私たち一人一人も、主に選ばれ、呼びかけられている者であることを心に覚えたく思う。

2003年2月16日(日)主日礼拝宣教要旨

2006
2005
2004
2003
2002
2001
2000
1999
1998
1997

2003年

1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
メニュー
ホーム