新しい民として

1正しき者よ、主によって喜べ、さんびは直き者にふさわしい。 2琴をもって主をさんびせよ、十弦の立琴をもって主をほめたたえよ。 3新しい歌を主にむかって歌い、喜びの声をあげて巧みに琴をかきならせ。 4主のみことばは直く、そのすべてのみわざは真実だからである。 5主は正義と公平とを愛される。地は主のいつくしみで満ちている。 6もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた。 7主は海の水を水がめの中に集めるように集め、深い渕を倉におさめられた。 8全地は主を恐れ、世に住むすべての者は主を恐れかしこめ。 9主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立ったからである。 10主はもろもろの国のはかりごとをむなしくし、もろもろの民の企てをくじかれる。 11主のはかりごとはとこしえに立ち、そのみこころの思いは世々に立つ。 12主をおのが神とする国はさいわいである。主がその嗣業として選ばれた民はさいわいである。 13主は天から見おろされ、すべての人の子らを見、 14そのおられる所から地に住むすべての人をながめられる。 15主はすべて彼らの心を造り、そのすべてのわざに心をとめられる。 16王はその軍勢の多きによって救を得ない。勇士はその力の多いなるによって助けを得ない。 17馬は勝利に頼みとならない。その大いなる力も人を助けることはできない。 18見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある。 19これは主が彼らの魂を死から救い、ききんの時にも生きながらええさせるためである。 20われらの魂は主を待ち望む。主はわれらの助け、われらの盾である。 21われらは主の聖なるみ名に信頼するがゆえに、われらの心は主にあって喜ぶ。 22主よ、われらが待ち望むように、あなたのいつくしみをわれらの上にたれてください。
詩篇 33篇

33篇は、主なる神に対する、高らかな讃美への呼びかけで始まっている。琴や十弦の立琴といった楽器も登場する。主につらなる者、主を求める者は、子どもも大人も共に主を讃美しよう。主は素晴らしいお方、私たちはそのことは知っている。共に主をほめたたえよう。力いっぱい、心から、喜びの声をあげよう。力いっぱい、心から、喜びの声をあげよう、そんな讃美への招きの言葉が、特に詩の前半のところに集中している。

司会者の読まれるのを聞いただけでも、その力の響きを感じられたと思うが、詩篇の時代の新年は、秋の収穫祭をもって始まった。それは、収穫を主に感謝すると同時に、主の民としての契約を心に留め、私たちはあなたの民として歩みます、どうぞ見守って下さい、という決意を言い表す時でもあった。これは、その時に歌われたものではないかと、言われている。

私たちが年の始めに、今年こそこうしたい、ああしたいと思うように、この詩篇の著者の時代の人たちも、新しい思いにみなぎっていたことであろう。そして最後の22節は「主よ、われらが待ち望むように、あなたのいつくしみをわれらの上にたれてください。」という言葉で終わっている。

「待ち望む」という言葉から、私たちがすぐ連想するのは「クリスマス」である。ルカ2章には、幼な子イエスにまみえたシメオンという人と、アンナという女預言者のことが記されている。「シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、『主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救を見たのですから。…。』(28―30)、「み言葉のとおりに」「安らかに」というのはみ言葉に従って、その確かさにおいてということである。

そこで彼が見たと語っている「あなたの救い」とは何か。それは、幼な子イエスにおいて、神が共におられること(インマヌエル)を知ったということである。救い主にまみえることが、シメオンとアンナの、生涯をかけての願いであり、祈りであった。

さて「待ち望む」という言葉は、「待つ」ということにおいて、「時の間」を感じさせるが、一体何を待っているのか、ということにも目を向けたいと思う。

小さい子どもの場合は、見近に見る大人のように、いろんな力を持ちたいとか、車を運転したいというものがある。それは、ある程度年月を経ないと実現出来ないことである。

年を重ねると共に、進学・就職・結婚等、身の回りにいろんなことが生じてくる。何であれ選手と呼ばれる人たちには、競技に備えていくということが、日々の生き方、生活の中に既にある。つい先日、テレビで黒柳徹子と長嶋監督の対談があったという話を聞いた。その中で長嶋監督が「学生時代、野球部にいた時は監督から、『メジャーの選手になれ』と言われた。

しかし、その話があった時は既に巨人に入っていたのと、今抜けられると困るという球団の事情もあって、結局そのことは実現しなかった。」ということである。今までのことから考えてみると、待つ、待ち望むという言葉は、この世的な希望や幸せが目標となって、使われることが多いように思われる。辞書には「待つ」ことの意味として、何かがそこに来る(実現する)ことを期待して、それまでの時間を過ごすこと、また、状況が何らかの事情で好転することを期待してそれまでの時を過ごすとある。しかし、今は、待つということが一般的にむつかしくなっている。「待つ」ことには、ある種の忍耐を要する。

最近手にした本に、「私たちが生きているこの時代は、歴史的に見ても、待つことをとても困難にしています。それは、私たちが「恐れ」にとりつかれているからです。今日、私たちを取り囲む風潮の中で、もっとも支配的な感情の一つは、漠とした「恐れ」です。人々は、内にある感情を怖がり、他人を怖がり、将来を怖がっています。」(「待ち望むということ」ヘンリー・ナーウエン著、工藤信夫訳、あめんどう刊)と、あった。しかし、実際には、そのような自覚はなくて、むしろ、「待つ」ことにおいて、他に遅れを取りたくない、損をしたくないということであろう。競争を原理とする世界では、常に「先手必勝」「在所戦場」である。

しかし、聖書で語られている「待つ」「待ち望む」ということは、人生を通して、主なる神との交りを目指す、また来るべき日に備えることを意味する。

それはまた13、14節にあるように、自分が主の目の内にあることを思うことである。18節に「見よ、主は御目を注がれる」(新共同訳)とある。どういう人にか。それは「主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に」(同)である。20節「われらの魂は主を待ち望む」(a)とあり、21節に「われらは主の聖なるみ名に信頼するが故に、われらの心は主にあって喜ぶ」とある。主に対する信頼こそが、私たちの心を落ち着かせ、最善の道、方法を選びとっていける力を与えてくれる。

22節に「主よ、われらが待ち望むように、…」とあるが、何よりも主御自身が、待っていて下さるということに気付く私たちでありたいと思う。繰り返しになるが、私たちを支えているもの、また私の待ち望むものが何であるかを改めて考えてみたいと思う。

新しい民の生き方として、主を待つ、待ち望むということから語らせて頂いた。しかし、私たちそれぞれは、主によって待たれている一人一人であるということを、心にしっかりと留めたく思う。

2003年1月12日(日)主日礼拝宣教要旨

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