浅野繁政さん(横須賀長沢教会牧師)は、1939年6月5日、繁八郎さん・正子さんの、一男三女の長男として、近くの元古井町で誕生された。高校に入った折頂いたギデオン協会の「聖書」を手に、この教会で求道を始められ、1956年3月18日、副田正義牧師からバプテスマを受けられた。高2の時である。この時、私は関西学院大学神学部の学生で、関西で行われた中高生の修養会で名古屋教会から参加しておられた彼と出会った。
そして、1960年3月、私が名古屋教会に赴任して以来の交流が始まった。1964年、建って真新しい名古屋都ホテル(初代社長の吉田龍作氏は正代夫人に続いて、後に当教会会員となられた)に入社。1971年9月26日、元子夫人と結婚。拓馬、有喜、大喜の男児3人を授かった。教会の奉仕をしながら期するところあって発声練習を始め、1988年、男性合唱団東海メールクワイアに入団。1991年、東海メールに来られた高田三郎氏の「典礼聖歌」に接し、定期演奏会では、曲の中でソロをされることもあった。
教会では、1994年4月開設の、長久手ぶどうの木キリスト伝道所株分けの一員として、特にメッセージを担当されることが多かった。(1990年11月26日、息子有喜君の死は、彼にとって大きな試練となった。)1994年、定年を前に、55歳で都ホテルを退職。1995年西南学院大学神学部に入学。
1998年、同専攻科を卒業と同時に、横須賀長沢教会からの招聘を受け、同教会牧師として着任。以来、その努力の賜物を存分に発揮し、元子夫人共々、思いがけない大病を克服しながらであったが、牧師としての働きを続けてこられた。
しかし、昨年の暮れ、病院に心臓の検診を受けに行った折、レントゲンで肺に癌の症状が発見され、しかも、余命一年という診断を受けたことから、急遽、教会(執事会)に辞意を申し出、ご夫妻としては、すぐにも名古屋に戻ることを考えておられた。が、今のままで養生に専念して欲しいという教会の熱い意を受け、それにも応えるべく、肺に溜まる水を抜くためだけに、最初の頃は2週に1回、途中から3週に1回となったが、名古屋の聖霊病院に通われ、普段は専ら免疫療法で体力の保持に努めておられた。
しかし、8月の父上の葬儀の後、横須賀に帰られてから、急に歩行が困難となり、聖霊病院で検査したところ、脊椎に転移していることが分かった。彼は車椅子に乗ってでも教会に戻りたいと言った。そのような中で、名古屋に留まって放射線治療を受けるか、ホスピス病棟に入るかの選択を迫られ、9月4日、息子の大喜君が勤務する京都・バプテスト病院ホスピス病棟に移られることになった。しばらくは、元子夫人や大喜君ともあまり口を利かなかったという。恐らく自分の気持ちに反して身動き一つ自由にならない口惜しさや、横須賀長沢教会に対する思いが深くあったと考えられる。
それでも、10月24日(木)午後1時から、病院のチャペルで、車椅子に座したままの状態であったが、マタイ4:1―11をテキストに「人が生きるということ」と題して、み言葉を語る機会を与えられた。横須賀・名古屋・枚方から訪ねた教会の諸兄姉に囲まれて、何とも幸せそうな笑顔の浅野牧師が写真に写っている。その後も何度か持ち直しながら、11月17日(日)午前5時30分、静かに眠りに着かれた。享年63歳。
昨晩、告別前夜式を行ったが、私はまだ告別という実感がわかないでいる。彼が召されたことを認めたくないという、無意識のものがあるのかも知れない。皆さんの方に向かって置かれている写真は、浅野牧師が横須賀長沢教会に赴任した時に撮ったもので、落ち着いたやさしい感じであるが、私には白い歯を見せる青年の時からの笑顔が、何度も目に浮かんでくる。
先程お読みしたこのヨハネ14:1―7は、特別集会や葬儀などでよく聞かれる箇所であるが、これはすごい大変なことだということに改めて気がついた。何度もこの箇所にふれながら、「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」(2)と語られたイエス・キリストのお働きが、私たちに対する慰め以上に、どのように勿体無いことであるかということに気がつかなかった。
この「場所」(トポス)という言葉は、非常に大切な意味をもっている。どこに自分を置くか、あるいは自分を置くべき場所を心得ているかどうかということは、人の生活や生き方に大きな影響を及ぼす。しかし、イエス・キリストが「あなたがたのために場所を用意しに行く」(2)と言われたその「場所」は、他のなにものにも代えることの出来ない場所、父も、イエス・キリストもおられる。そして、この私の場所なのである。そして、そこは、人生の意味を置く、もっとも平安で、変わることのない場所である。なぜなら、創造主なる神が、イエス・キリストを通して、私たちを導かれるところだからである。「わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(3)とある。これは、イエス・キリストによらなければ示されなかった場所である。浅野繁政牧師は、キリストの導きを受け、そのことを大切に、見失わずに歩まれた方だった。
昨晩の前夜式で、浅野牧師が自分の一番したいと願っていたことは、自分のからだと生活をもって、いかに主に仕えるか、主なる神のこと、イエス・キリストのことをどのように伝え、讃美していくかということであった、と申し上げたが、そういう意味で、彼のことば、その語りには、不思議な香りがあったことを思い出す。
告別の時に当り、浅野牧師が生涯をかけてめざし、喜んで語り、私たちに伝えようとした「大切なもの」を、私たちも「大切に」受け止めて、これからの人生を歩んでいきたく思う。