今日この後でもたれる教会学校では、エレミヤ31章をテキストに、「新しい契約」というテーマで学ぶことになっているが、この礼拝では、それと関連のあるへブル人への手紙8章から、同じテーマで語らせて頂くことにする。「契約」という言葉は、簡単に言えば、約束ごとを意味する。ただ、それは、双方で確認した約束ごとを、かたち(文章)にして交わすという点で、普段、私たちが口で交わす約束とは異なる。
聖書で、「契約」と訳されたもとの言葉には、条約、協定、取り決めという意味がある。かたちとしては個人と個人、個人と会社、会社と会社等、規模や組織の大小はあっても、結んだ契約に対して責任を負うという点では、双方共同じ線上にある。しかし、聖書で語られる「契約」は、神の約束、み思い、願いがまず基本にあるということを心に留めたい。ところで、「初めの契約」(8:7)というのは、あのシナイ山で、神がイスラエルの民に示されたものである。(8:9a、出エジ24:3-8)
そこでは、律法を守るということが、神の前に生きる基本となっていた。しかし、8章8-12節(エレミヤ書 31:31-34の引用)の9節後半に「彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、わたしも彼らをかえりみなかったからであると、主が言われる。」とある。つまり、「初めの契約」では、神と人との関係が成り立たないということである。なぜ成り立たないのか。それは、人の本性というのはそのままでは、神の律法、いましめに従い得ないものがあるということである。
現に「出エジプト」という恵みの出来事を経験しながら、約束の地カナンを目指す旅の中で、彼らはそれを恵みとして受けるよりも、現実の苦しさから、「奴隷の状態であっても、エジプトにいた方がよかった」という思いから抜け出すことが出来なかった。そういう意味で言えば、私たちにとって現実はいつも戦いである。詩篇に「わたしは生ける者の地で、主のみ前に歩みます。『わたしは大いに悩んだ』と言った時にもなお信じた。」(116:9-10)というみ言葉があるが、本当はそうした思いと闘って、今の現実を乗り越えていくことが、恵みによって引き出され、生かされている者に求められているのではないか。
そのようなことを考え乍ら、太宰 治という作家の「走れメロス」という作品を思い浮かべた。大分前に読んだ本でうろ覚えであるが、主人公のメロスは、王の怒りをかって磔(はりつけ)の刑を申し渡されるが、死ぬ前に是非したいことがあって、(多分、妹の結婚式に出席すると言うことだったと思うが)それを済ませたらすぐ戻ってくるという約束で、彼の親友が身代わりとなるわけである。そして、もし彼が戻って来なければ、その親友が処刑されることになっていた。メロスは無事に故郷に帰り、みんなに別れを告げて宮殿に引き返すその途中、川が増水して渡れなくなるという、状況に遭遇する。やっとそこを脱し、王宮に向ってひたすら走りに走って、友人の処刑寸前に間に合った。
その友人は、回りから、お前の友だちはきっと戻ってこない、と言われたが、メロス自身の中にも、このまま姿を消したらという思いが、そういう自分との闘いが、全くなかったとは言えない。しかし、そうした中で、メロスは自分に対する友人の信頼を裏切らないことを願って、ひたすらに走ったという、物語である。
これは友情の物語であるが、この生と死をかけた闘いが、聖書には度々記されている。ヨハネ第一の手紙4:9に、「神はそのひとり子を世につかわし、彼(イエス・キリスト)によって、わたしたちを(父である神との関係の中で)生きるようにして下さった」という言葉がある。まさに、神はイエス・キリストを通して、私たちが生きるものとなることを、願っておられる。イエス・キリストが十字架にかかられたのも、私たち一人一人のためである。それを考えると、大きな期待と愛の中で、私たちは、イエス・キリストに応えていくということ、備えられているみ国に走り込むという闘いを、日々にしていくことが、必要ではないか。しかも、それは、終わってしまったらそれでおしまいというようなものではない。
昨日の新聞(朝日・朝刊)の中に「ネットとTV、対立から共存へ、広告は『ながら族』狙う」というイラストつきの、大きな見出しで、紙面の3分の1程の記事があった。その初めのところに、「インターネットに、テレビと同じCMが流れ始めた。…テレビとネットは時間を奪い合う『対立関係』から、二つの画面が並立する『共存関係』に変わりつつある。
ネット接続中にテレビも見る新『ながら族』を見据えた、ネット広告を模索する動きが始まっている。」という解説の後に、「ブロードバンドの常時接続の普及で、ネットを使いながら、テレビを見たり、音楽を聞いたりする人が増えている。」とか、「テレビとパソコンの画面を行き来する」「だらだらとつなげて、ちょびちょび見る」「だらちょび」視聴が多くなったという活字が目に留まった。それはそれで効率的ということかも知れない。しかし、人というのは何か一つのことに集中していかないと、「ながら」では、自分の感覚が選びとるものだけを選びとって、物事の本質や、作者の気持に触れるということが、思考の中から次第に遠のいていくのではないかという不安を感じた。
太宰 治は人間のもつ淋しさや、当所(あてど)なさ、人の中の闇を愛していくような文章を書いて、最後はそんな自分に疲れて自殺したように記憶しているが、人が自分を主にしていくかぎり、決して幸せにはなっていかない。何故なら、認めようが認めまいが、人は神から創られた存在である(創世記2:7)からである。さっきの新聞の記事を読んで、やはりこうして教会に来て、礼拝の時間、じっと一つ所に座して、み言葉に聴くということはすごいことだと改めて思った。私たちに出来ることは、この世の流れに遅れないように、流されないようにというのではなく、この世の流れの中に立って、自分と神との関係を失わないでいくということである。
私たちが立つべきところを心得ていれば、不安や恐れの感情に振り回されることなく、どのような状況の中にあっても、神との信頼の中に立っていくことが出来る。私たちは、イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの罪のあがないとなって下さった、そういうかたちをとっても、神がご自分のところに立ち帰るものとして、私たちそれぞれを信頼し、期待していて下さるということを、決して忘れてはいけない。