主から戴く信仰

23イエスはマルタに言われた、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」。 24マルタは言った、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」。 25イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。 26また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。 27マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。
ヨハネによる福音書 11:23−27

六月第二主日の礼拝を、召天者記念礼拝として守るようになって22年目を迎える。この間に、「私たちがこの礼拝に出てもいいのでしょうか」という質問を受けることが何度かあった。つまり、本当は、自分は部外者ではないかという気持を持たれる方がおられるようである。週報に記しているように、礼拝の主旨として、一つに、この教会に関わりがあって先に召された方たちを、それぞれの御家族と共に覚えることにあるが、もう一つには、時が来れば、私たちもこの世を去る者であることを覚える機会としたいということがある。

ついこの間、近くのT理容店のおばあさんが急性心不全で突然亡くなった。親しくしてきたこともあって、I祭場での葬儀に参列したが、そこで配られた小さな紙に「OO宗では死を不浄と考えないので、きよめのお塩は使用しません」とあった。キリスト教では、死を不浄とは考えないので、このような「断り」自体に、不自然な感じを受けるが、仏式の葬儀では、今でも「きよめの塩」が参列者に配られる。それはともかく、普段の生活の中でも、死を忌む傾向は一般にある。また葬儀を行う所には、きまって「忌中」の紙が張られる。人が死を考えたり、話題にすることを避けるのは、それが、生きることに直接結びつかないということと、また、考えてもわからないということであろう。

創世記の2章のはじめに、「神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった!#(7)とある。人は素材としては「土のちり」であるが、主なる神から、命の息を吹きいれられることで生きた者となった存在である。言葉を替えて言えば、神によって、取るに足りないものが、かけがえのないものとして、生かされるということである。伝道者パウロは、ローマ人への手紙の中で、「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。」(14:8)と記している。

「主のために」というのは、主に対して、主との関係において、ということである。続いて、「なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。」と語っている。私たちは、それぞれ、神の時の中に生かされている者として、この礼拝に与かっているのである。パウロはまた、ピリピ人への手紙3章20節に「わたしたちの国籍は天にある」と記している。これは、只、国籍が天にある、行き先がきまっている、ということではなく、国籍を天に置く者として、今のこの時を生きよ、ということであるが、帰るべきところ、目指すべきところとして、既に備えられた場所が約束されているということである。人は死んだら、つまり、肉体のいのちの時が終わったら、大抵の人は先祖の、あるいは父母の、あるいは自分の求めた墓地に、その骨を納めてもらうことになるが、わずか20〜30センチ四方のその場所が、私たちの帰るべき故郷(ふるさと)だろうか。

ヘブル人への手紙11章6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」とある。教会員あるいは教会員のお身内の方も、ご依頼があれば葬儀をさせて頂くが、願うことは、共々に主にあってひとつとされていくことである。最近は見かけないが、親が子どもを、子どもが親を探す番組があった。親にとっては自分の子どものいる場所が分からないということは大変なことである。

その傷がどのように深いものであるか、子どもはおそらく知ることはできないと思うが、神の人に対する思いも、万物の創造として計り知ることのできないものである。私たちひとりひとりが、当事者になって考えてみれば、少しは理解できるような気がする。そして、イエス・キリストは、神の委託を受けて、この世にいのちの時を移された。

今日の箇所は、ベタニヤという村に暮らしていた三人きょうだいの身の上に起こったことである。少し前の5節に、「イエスは、マルタとその姉妹(これはマリヤのことであるが)とラザロとを愛しておられた。」と、わざわざ記されていることから、主イエスと彼らの間に、深い交わり・交流のあったことがうかがわれる。両親のことが記されていないから、恐らく3人で、助け合いながら暮らしていたのであろう。

ところが、そのラザロが重い病にかかり、イエスが着かれた時には、すでにラザロは亡くなって4日もたっていた。イエスを出迎えに行ったマルタの口から出た言葉は、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。…」であった。そのマルタに、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」と応えておられる。それに対する彼女の答えは、人の死は、それですべてが終わるのでなく、創造者である神のみ前で、いつの日かよみがえって、さばきの時を迎えるという信仰を言い表している。それに関連する言葉として、Iペテロ4:5に、"彼らは、やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに、申し開きをしなくてはならない。"とあり、また、ヘブル9:27には、「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、…」とある。

ただマルタは、他の多くの人たちがそうであったように、それを「終りの日」のこととして、はるか先のこととして理解していた。イエスはその彼女に、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。」と語られ、「あなたはこれを信じるか。」と問うておられる。「わたしはよみがえりであり、命である」という言葉は、原文では「わたしがそれである」という、強い響きをもった表現になっている。「わたしを信じる者(原文は『わたしに信じる者』)は、たとい死んでも生きる。」とある。これは、永遠の神のいのちにつながれていくという意味である。「また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」とある。「生きていて…」というは、「生きている間」ということでなく、「生きて、いのちを受けて」わたしを(に)信じる者は、と言う意味である。

今、礼拝後の教会学校では、出エジプト記を学んでおり、先週は「十戒」の前半、つまり神を第一として生きよということを、今週はその後半、隣人に対するいましめを学ぶことになっている。

「あなたの父と母を敬え」「あなたは殺してはならない」「あなたは姦淫してはならない」「盗んではならない」「隣人について、偽証してはならない」"隣人の家をむさぼってはならない"等、自分の欲望のままに相手に対してはいけないということが、わざわざ書かれている。

これらのいましめは、自分以外の人に対する心や行動を、神のみ前でふり返って見ること、神に創られた者として、お互いのことを考えていくことを示している。私たちは、イエス・キリストにおいて、いのちが死によって閉じられるのでなく、死が神のいのちの中に入れられていくもの、組み込まれていくものとして、既に備えられてある、ということを、この機会に考えたく思う。そういう意味でも、今のいのちの時を主から戴く信仰によって、希望と忍耐をもって歩んでいきたく思う。

2002年5月12日(日)主日礼拝宣教要旨

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