ここは主イエスの語られた、ぶどう園で働く労働者のたとえである。ここを読んでみなさんが一番共感されるのは、最初から雇われた人たちの言い分ではないか。彼らは主人と一日一デナリの契約で雇用関係を結び、喜んで仕事をした。もし後から来て働いた人たちがいなければ、その労働がいくら苦しくても感謝のうちに賃金をもらって一日を終えたであろう。
しかし、働いていると後から後から加わる人が現れ、一日の労働が終わってみると、朝一番に来た自分たちの賃金も、後から来て働いた人の賃金も同じだったということで、自分たちの労苦が空しく思われ、急に怒りの感情が込み上げてきたのだろうと思う。これに似た聖書の箇所があるのを思い出した。それは、主イエスの語られた「放蕩息子」のたとえ(ルカ15:11−32)に出てくる兄の言葉である。
兄弟二人だけだから、行方が分からなかった弟のことは気にはなっていたであろう。彼が冷静でおれたのは、弟が財産の分け前をもらって出たということだった。しかし、その弟が放蕩に身を持ちくずし、もらった財産を使い果たして、無一物で帰って来た時、父親は彼が生きて帰ってきたということだけで非常に喜んだ。着物を着せ、指輪をはめ、はきものをはかせ、子牛をほうって祝宴を催した。しかし、父親がそのように喜びを表したことで兄の心に怒りが込み上げてきた。「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。」。すると父親は兄息子に、「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。」と言って聞かせる。
しかし、この「あなたはいつもわたしと一緒にいる」という言葉は、一番分かりにくいかも知れない。そして、この兄の腹立ちとは質は違うが、やはり、ぶどう園で朝早くから働いて一デナリを手にした人との憤りと共通するものがある。ここでは、彼らの憤りに対して、主人が「わたしは、この最後のものにもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当たりまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか」(14b−15)と答えている。次の「このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」(16)という言葉は他にもなん箇所か出てくる。(マタイ19:30,マルコ10:31、ルカ10:30)。私たちの解釈でいくと、後から出てくる者が、先の者を追い抜いていく、ということになる。
しかし、今考えてみると、「あとの者は先に」ということは、むしろ、主御自身がそれを望んでおられるということである。例えば、兄弟が何人もいる家庭では、まず、小さい弟や妹に取り分けて、後を自分たちで分けて食べるというふうに、特に食べるものの少なかった時代には自然にそうしていたように思うが、この「あとの者は先になり」というのは、先の者が後の者のために心を遣う、そのようにして後の者を迎える、神の国がくればそうなる、神の国ではそうだ、ここには、そういう意味が込められているのではないか。
兄の立場も、朝早くからきて働いた人たちも、自分の労苦は強く実感しても、只することもなく立っていた人の虚しさや苦しさは理解出来なかったであろう。しかし、神が共におられるということ、神がこの私を愛して下さっているということは、みんなに共通することである。只それを早く知ったか、遅く知るかの違いである!信仰の恵みに与かった人が自分はもっと早く知ることが出来ればよかった、もし早くイエス・キリストを知り、神を信じることが出来ていたら、物の考え方や生き方の上で、自分の人生はもっと変わっていただろうということはよく聞く。早く知ったから損をしたということは決してない。早く知ったから、それだけ主との交わりにも奉仕にもあずかることが出来るのであって、短い年月の中で主を知った人とくらべて、自分は損をしたとは決して思わないものである。
伝道の書に「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に」(12:1)という言葉がある。私たちの気をつけなければならないことは、他の人と自分をくらべないことである。ぶどう園の主人は、最初に来た人たちのひとりに向かって、「友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。自分の賃金をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ」と言われた。これは、もともと私たちの合理・不合理・価値観や常識で考えられることではない。「この最後の者にも」払ってやりたいといわれる神のみ思いの中でのことである。
例えば親にとって長男は大事だけれど、最後に生まれた子どもにも自分の愛を注いでやりたいと思うように、神もそういう御自分の愛ということにおいて、最後の者にも、自分の前に現れたということで同じ賃金を払ったということである。だからこの場合の賃金というのは、働いたことに対する報酬というよりも、神の恵みということであり、その関係が始まったということである。その関係をどう喜ぶか、どう感謝するかというは、それぞれのことになる。
私たちは社会の中で生活しているから、どうしても周りとの関係がいつも現実性をもち、周りとの関係でものごとを考えていくことになりやすいが、キリスト者として私たちが一番身につけたいことは、神との関係における自分の位置ということである。後から信仰に与かった人が自分よりはるかに生き生きとして見えることがある。教会で古くから信仰に与かった人が疲れることでパリサイ人のようになったり、律法学者のようになったりするのは、主の栄光の重さを受けることが人としてきついことだからそうなるのかも知れないが、やはり私たちはまず、主にあって自分を喜び、感謝を返していく、そういう生き方を身につけたく思う。「あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」というのは、この世的な常識で言えば、力ある若い者が年老いた者を抜いていくということになるが、そうでなくて、今度は若い者が年老いた者に代わって荷を担っていく。そういう意味を含む言葉として考えたい。
先日ここで宣教をして下さった加藤常昭先生が、この教会はいろんな年齢層の人がいて素晴らしい。子どもたちも多くて嬉しい。彼らは次の時代の力だと言っておられた。私たちは、委ねられ託された子どもたちを愛し、彼らを育てていく目と心をいつも持っていたい。ぶどう園の労働者とたとえを、神の国の姿を示したものとして受けとめたい。