今朝はイースターに先がけて、香林さんと明広君の信仰告白をお聞きすることが出来、心から嬉しく思う。バプテスマを受けられる方々を前にする時、私はいつも「天で喜びがある」(ルカ15:7)と言われた主イエスのお言葉を思い起こす。お二人共お母さんに連れられて、小さい時から、お母さんのおなかにいる時から教会に通っていた、と言っておられたが、クリスチャンのお母さんの子どもがすべてクリスチャンになるとは限らない。また、お母さんの気持やお父さんの理解とか、そしてそれ以前に、目には見えない神のご計画と主イエスの語られた「父の引きよせ」(ヨハネ6:44)があるということを思う。その導きを察知することが出来た、一歩前に進むことが出来たということは、非常に、ある意味で特別な祝福されたことである。
「信仰の世界」は、私たちやこの世の常識でははかりがたいものがある。神の御子が王宮ではなく馬小屋で生まれたということ、そのことを知って高価な宝を携え尋ねてきたのは、東方の国の博士たちであったということ、そして今日の聖書の箇所では、ひとりの女が、高価な香油の入ったつぼを持ってきて、食事の席についておられたイエスの頭にその香油を注ぎかけた、ということである。マルコによる福音書には、「非常に高価で純粋なナルドの香油」(14:3)とある。そして彼女の行為を非難する「弟子たち」の言葉に「300デナリ以上にでも売って」と、そのおおよその価が記されている。
当時の自由労働者、またローマ兵士の一日分の賃金が一デナリと言われているから、その300日分以上ということで、相当な額のものであることが分かる。旧約聖書には祭司や王や預言者の任職の折に、香油が祝福と共に注がれる記事がいくつもあるが、その場合の油は、ごく少量のものであったと思われる。しかし、ここに出てくるこの女は、その香油を惜しみなくイエスの頭に注ぎかけたのである。すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか」。この香油は弟子たちのものではないのに、あたかも自分のものが「むだ使いされているかのように憤ったのである。
弟子たちはイエスを自分の主としていながら、この世の価値観に支配されていた。彼らはイエス御自身のことに心を働かせるよりも、「貧しい人たちに」というかたちでその心を表している。確かにこの時点では、弟子たちを始め人々にはイエスの十字架の意味が分かっていなかったということもあるが、やはり、香油の価値以上にはイエスは尊ばれていない。それをお聞きになってイエスは、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである!」と言われた。恐らく彼女のこの行為は、十字架を前にした主イエスにとって、非常な慰めと力になったに違いない。
イエスは25章で「天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて彼らと計算をしはじめた。」(15-30)という、一つのたとえを語っておられる。タラントのたとえとしてよく知られた箇所であるが、もう一つの大切なメッセージとして人の人生は備えの時、終わりの時までの持ち時間、また待ち時間であるということである。やがて、イエスがこの世を去られる時が来るということは、誰も実感はしていなかった。ただ、女はその時の近いことを感じとっていた。
彼女が主イエスの死の意味をどれだけ深く理解していたかは分からないが、彼女は「ここに愛がある」(Iヨハネ4:10)「愛そのもの」があるということを感知したに違いない。"ここに愛があるという事実に対する思いは$自分の大切にしている高価な香油を注ぐことによってしか表すことが出来なかった。計算や打算とは無関係な彼女のこの行為は、愛から出たものである。先日ここで宣教の御奉仕をして下さった加藤常昭先生は、その著書の中で、しかし、いったい誰の愛の話なのか、勘定の成り立たない愛をもって、誰が誰を愛したのか、という問いかけをしておられる。
私たちは、勘定の成り立たない愛をもって私たちを愛し、求めていて下さる神の御子、十字架にかかり、罪の贖いとなって下さったイエス・キリストを思いみるべきである。パウロという伝道者は、ローマ人への手紙の中で、「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。」(11:33)と述べ、また、エペソ人への手紙では、「キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え」(3:8)と、自分の生涯をかけての使命について語っている。
今朝、キリスト者として新しく誕生される、香林さんと明広君が、主のものとして成長していかれることを願い、祈るとともに、この喜びを共に出来る私たち一人一人も新しく、神のみ光の中に、豊かなものとされていくことを願うものである。