心にとめて

4あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。 5あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。 6何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 7そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。 8最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。 9あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。
ピリピ人への手紙 4:4-9

昨晩、鷹松さんから、14日に男の児が生まれ、直美さんが今日退院されたとのお電話を頂いた。母子共にお元気とのことで、嬉しく思う。また、一昨日、愛知医大病院に萬さんを見舞った。元旦礼拝の後、長久手伝道所の暮れの集会の様子を報告して下さった時は気がつかなかったが、昨年の暮れから体調を崩しておられた由。胃に大きな潰瘍が出来ていて、入院中にも出血があり、一カ月の入院とお聞きした。ずっと点滴で、食事は勿論、一滴の水も飲めないと言っておられたが、仕事を離れて病院で静養しておられるせいか、すがすがしい感じだった。一日も早く回復されるよう祈りに覚えて頂きたい。

今朝は「聖書教育の準備のための聖書箇所」を参考に、ピリピ4:2−9を選ばせて頂いた。ピリピ人への手紙は、伝道者パウロが獄中で書いたとされている4つの手紙(ピリピ・コロサイ・ピレモン・エペソ)の内の一つであるが、特にピリピの教会は、パウロにとって最も心おきなく、励まされ、また力づけられた教会であったことが記されている。手紙の書き出しのところに、「わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、−(中略)−あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。」(1:3−5)とある。

また、「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。」(6)とある。昨年11月の西日本大会で感じたことは、長い年月の中を、主に在って歩んでおられる方たちの姿である。名古屋教会との関連だけにしぼれば、山本長邦さんは大成さん(神戸在住)と出会い、私は汐満さんご夫妻と出会った。

また、大会の開会礼拝でメッセージをされた今村牧師(高松常磐町教会)は、西南神学部での同期生である。彼は開口一番、「私は50年前、この名古屋に来たことがあります」と言われた。それは、1952年の夏(この名古屋教会が建った年である)、牧野ケ池(今の名東区)の小高い丘の上にテントを張って催された全国少年会修養会に参加した時のことである。

私は大阪からで、バプテスマを受けて間がない高3の学生だった。全部で70名程だったと記憶しているが、プログラムの最後のところで、当時、名古屋教会に赴任されたばかりの富田修養会牧師から、献身の招きがあり、それに応えて10名余が立った。その中の一人が今の今村牧師であり、私である。

人生には分からないことが多くある。また、人の働きや動きは、その時々の事情や状況によって変わるが、神の真実は変わらないということをみ言葉から示されている。人は誰でも、自分の生きていることの確かさを何らかのかたちで求める。それが、ある時は異性への愛であったり、仕事であったり、あるいは物や財産であったりする。そして、それらはさまざまなドラマを持つが、大事なことは、自分が何処に向かって歩いているかを知っているということである。

詩篇16篇に「あなたはいのちの道をわたしに示される」(11a)とある。私たちにいのちへの道−神の中に自分の存在を知る道筋−が示されているということである。

人は、そのことをほとんど知らない。自分の生きていることが、飲んだり食べたり働いたり、学校へ行ったり遊んだり、家事や育児に追われながら、それが何処につながるのか、精一杯生きているつもりでいるが、結局それが何を目ざしてのことなのか分かっていない。

しかし、私たちは自分のいのちが、神の前にかけがえのないものとして覚えられ、またその見守りの内に置かれているものであるということを知っている。あたかも太陽の光に向かって、真っすぐに伸びる樹のように、歩むべき方向と確信が与えられているということは、何と素晴らしいことか。

宣教題の「心にとめて」は、8節からとらせて頂いた。「心にとめる」ということは、心の片隅に覚えておくということではない。原意は「熟慮する」ということである。これは、次の「あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。」ということばに関連する。8節で語られていることは、この世に遣わされて生きるキリスト者としての、私たちの生き方のことである。私たちは、聖書の語る「信仰」が、単に心の中の事柄ではなく、むしろ、心で大切にしていることを、どう具体化し、生活化していくかという、生き方の問題であることを、ピリピ人への手紙から教えられる。

この手紙が、獄中で書かれたものであることは先程述べたが、それを思わせるような暗さは、少しも感じられない。むしろ、読む者に力と励ましが与えられる。

「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。」(4)とある。この手紙で、「喜びなさい」とあるのは、ここで3度目であるが、(2:17−18、3:1)、まず、このことばから思うのは、「いつも喜ぶ」ということが、私たちの生活の中にどれ程あるか、またあったか、ということである。むしろ喜びの数というのは、手で数えられる程度ではないか。ここで、大切なこととして心にとめたいのは、パウロの言う「喜び」が、何か嬉しいことがあって喜ぶというのでなく、「主にあって」と語られている点である。この手紙には、「主にあって」、「イエス・キリストにあって」ということばが何度も出てくる!(2:5,19 3:1 4:1,7,19)。「主にあって」というのは、「主に結ばれて」「生ける主との交りに与って」ということである。

只、パウロはここで「あなたがたは、主にあっていつも喜んでいる」ではなく、「いつも喜んでいなさい」という言い方をしている。いつも、どんな状況にあっても、私たちは喜ぶことが出来るのだから喜びなさい、喜んでいなさい、ということである。「何事も思い煩ってはならない。

ただ、事ごとに、感謝を持って祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。」とある。「思い煩う」という言葉の原語の意味は、「分つ」ということである。本来は一つとして、保たれるべき心が、いくつにも分かれて、まとまりを失った状態のことである!(マタイ6:25-27他)

食べる時は食べることに、話をする時は話をすることに気持を集中すればいいのである。ところがなかなかそれが出来ない。

パウロは「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに感謝をもって」と語る。「ただ事ごとに感謝をもって」というのは、一つ一つを主との関係において、ということである。どんな求めにも耳を傾けて聴いて下さっている方がおられるのだから、そのことを心にとめて、信頼して祈れということである。

このことに関連して、他に覚えておきたい聖書の言葉として、「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」(Iペテロ5:7)がある。また、「あなたは全き平安をもって、こころざしの堅固なものを守られる。彼はあなたに信頼しているからである。」(イザヤ26:3)とある。「こころざしの堅固なもの」とは、神に心を寄せて変わることのない者のことである。

次に、「そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう!」(7)とある。神の平安ー神からの平安ーとは、単なる心の安らぎのことではない。

神の愛のうちに覚えられているということである。「守る」とは、見張る、監視する、ガードすることを言う。私たちは、その"守り」の中で、信仰の戦いを戦うのである。私たちのこれからの日々の中で、どういうことが起るか分からないが、自分の中のさまざまな思いによって、主からはずれることがないように、この年も主に在って、共に歩んでいきたく思う。

2002年1月20日(日)主日礼拝宣教要旨

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