この2日からアドベント(待降節)に入って、今日で3回目の主日礼拝を迎える。この間の「聖書教育」のカリキュラムでは、ダニエル書をテキストに学ぶことになっている。先の予測の全く立たない状況の中で、しかも異国にあって、ただ神を信頼し、その約束を心に留めて生きたダニエルの生き方と、時代は後になるが、ベツレヘムで、み使いの言葉を心に留め、受胎告知を受けた時のマリヤの姿勢を重ね合わせて子供メッセージの執筆者は、「ダニエルから560年ほどたったユダの国に、同じような人がいました。それは、イエス様のお母さんのマリヤさんです」と書いている。
この二人の共通点を考えると、自分の先の予測が全くつかない、あるいはついたとしても暗いものでしかない状況の中で、信仰においてその道を歩んだということである。それは、正に信仰においてしか見ることも、耐えることも出来ないものであった。
さて、今日は「ダニエルの人生」という題を記した。勿論、ここで「ダニエルの人生」の全て語るということは出来ないが、一言で言えば、ダニエルという人は祈りの人であり、その人生は神への信頼に貫かれていたということである。10章の初めに「ペルシャ王クロスの第3年に」という時代を示す言葉がある。
これは、ペルシャ王クロスがバビロンを破って3年目(BC 536または 535)ということである。ダニエルたちがバビロンに連れていかれたのは BC 605年。当時、16歳だったとしても、この時は既に86歳の老年になっていたことになる。彼は「クロス王の元年まで王に仕えていた」(1:21)とあるから、この時は、既に役職から離れていたと思われる。考えてみると、彼はその人生の大半を、異国バビロンで過ごしたことになる。彼は、夢を解くということを通して、王に度々言いにくいことを言っている。
しかし、王の元で重く用いられていることから、回りの人々の妬みによって、彼は幾度も危機にさらされる。そのような中にあって、彼はその都度助けられていくのであるが、ここでもう一度振り返ってみたいのは、彼が初めてバビロンに連れていかれた時のことである。ダニエルは、王から出される王の食事と酒を断って、自分たちのために野菜と水を求めた。
2日の「宣教」の中で、彼の内に王の提供するものを断る勇気があったということは大したものだという言い方をしたが、結局これは、ダニエルの「勘(かん)」のようなもので、何でもないと思われるようなことが、自分の信仰や気持ちを変えていくものになるという感覚が彼の内で働いたということである。彼が異国の地にあって、尚神の民として自分を保っていたということは、その感覚を晩年に至るまで失わなかったということである。11節に「大いに愛せられる人ダニエルよ、」という呼びかけの言葉がある。(他に9:23、10:19)
丁度、若木が知らない間に大木になっているように、神に対するひたすらな従順さというか、ひたむきな忠実さが、彼を異国の地にあって大きな責任を担う人物にしていったが、この場合の「大いに」というのは、この世的な評価ではなくて、神の前に、大きく成長したということが、読む人にもはっきり分かるように、あえて付けられた形容のように思う。それと、この場合の「大いに愛せられる」(愛する)という言葉には、「宝物」 「尊い」という意味もある。
ダニエル書を読むと、繰り返し、さまざまな試練がダニエルを襲っているが、それは信仰において、一つの物語としてつなぎ合わされている。やはり、時間の中で、時間をかけて明らかにされてくるものがある。そういう意味で、ダニエルの神に対する姿勢や真実は、その人生の中で、ますますはっきりとしてきている。しかし、彼自身には、どのように用いられ、また安全が保証されていても、異国にあって、常に暗い未来を語っていかなくてはいけないという苦しみがあったように思う。
イエス・キリストの誕生というのは、生まれた時も、家畜小屋しか場所がなかったように、ある意味で、全く余裕のない時代に、しかも特別な保護やきらびやかさの中でお生まれになったのではないということを、併せて心に留めたく思う。
今年も残すところ半月となったが、この12月の初めに思いがけないことがあった。どういうわけか、劇団四季から、上演中の「ジーザス・クライスト=スーパースター(エルサレムバージョン)」の招待を受けたのである。特に「イエス・キリストの最後の7日間」を題材にしたもので、同封のチラシに、白抜きの大きな字で「熱くなる。」とあって、その左横に、やはり同じ白抜きの小さな字で、「魂をゆさぶる強烈なうねりー永遠の人間ドラマ」とあったが、観た後の感想として、「熱くなる」というのは、劇団四季の人たちが、自分たちの力を出し切って、それぞれの役を懸命に演じているという熱意として感じた。
また、イエスを裏切ったユダの苦しみや悲しみが、大きく浮かび上がって感じられたが、とにかく、イエスが亡くなるまでの最後の一週間を、ミュージカルのかたちにしても、四季の人たちによって演じられ、紹介されたということ、それに観客の殆どが若い人たちであったということが、一つの衝撃というか、嬉しいものにつながった。若い人たちが、ビデオだけでなく、こういう生(なま)の舞台、活動に、直接触れている姿に繰り返し感動を覚える。
今はどんな情報でも、機械の操作一つですぐに手に入れることの出来る時代になった。それだけに、その情報を選別していく目というか、能力が特に私たちに求められているように思う。自分にとって何が一番必要な情報なのか、何を取り入れていくかということが大切である。それは、自分のこの世に生きる基本を身につけた上で、いろんなことを取捨選択していくということである。私たちはいつも、自分がどう感じるか、どう思うかというところで動いてしまうが、ダニエルにしろ、また、私たちがその降誕を感謝するイエス・キリストにしろ、神のみ心を求めることをまず第一とした人生であったことを思いたい。
ダニエル書最後の12章に、「待っていて千三百三十五日に至る者はさいわいです。(3年8ケ月半に亘るこの数字は苦難の時をさしている)しかし、終りまであなたの道を行きなさい。あなたは休みに入り、定められた日の終りに立って、あなたの分を受けるでしょう」とある。私たち一人ひとりの人生は異る。
また、もし私たちの眠ることを、あるいは天に召されることを、休みというふうに解釈するならば、最後の審判の日ではなく、「私はあなたに忠実でした。自分に分る範囲であなたに対して忠実に歩みました。」と言える者でありたい。
先程は読まなかったが、9節に、幻に見た「ひとりの人」のことについて、「わたしはその言葉の声を聞いたが、その言葉の声を聞いたとき、顔を伏せ、地にひれ伏して、深い眠りに陥った」とある。彼のその深い眠りの中に、神の御計画・お考えがあったのではないか。それがはっきり見えるかたちになったのは、10節で「見よ、一つの手があって、わたしに触れたので、わたしは震えながらひざまずき・・・・・」とある。手が触れたことによって、彼は目覚めたということである。
12節に「すると彼はわたしに言った、『ダニエルよ、恐れるに及ばない。あなたが悟ろうと心をこめ、あなたの神の前に身を悩ましたその初めの日から、あなたの言葉は、すでに聞かれたので、わたしは、あなたの言葉のゆえにきたのです」とある。「あなたの言葉はすでに聞かれた」とあるように、私たちもみ心を悟ろうと努め、その答えがすぐに与えられなくても、私たちが神の答えを聞きたいとか、悟りたいと思うことは、すでに、神に聞かれていて、神がよいと思われる時に、その答えが与えられる、示されるということを思ってほしい。