先日、100才で亡くなった張学良の西安事件を、上海の通信社にいてスクープした松本重治さんに生前、長時間にわたって話を聞いたという筆者の言葉が10月17日、「朝日」の「天声人語」に載っていた。これは、その中の一文であるが、「センス、オブ、プロポーションという言葉をいつも思い浮かべる。松本さんは恩師の新渡戸稲造から教えられたという。重要なこととそうでないことを識別する感覚だ。世の中、この感覚の衰えが甚だしいとこのごろよく思う。」とあった。
そしてまた翌日の「天声人語」で「きのうふれたセンス、オブ、プロポーションだが、仮に、ものごとの『軽重感覚』と訳そうか。」という書き出しで、「この感覚が同時多発テロ以来、あちこちでゆがんできたような気がしてならない。いま囲碁名人戦の最中だが、このゲームほどセンス、オブ、プロポーションが必要とされるゲームはないかも知れない。広い盤上を見渡してどこが重要かを常に判断しなければならない。これを囲碁では大局観という。(以下省略)」私の目にとまったのは、この感覚を松本というジャーナリストは恩師新渡戸稲造から教えられた、というところである。新渡戸稲造という人は、札幌農学校第二期生。内村鑑三と同期で、クリスチャンの教育者として、日本の啓蒙に貢献した人である。
今日の宣教題の「翻える」という言葉から受けるイメージは、旗が風にひるがえる様であるが、手許の新明解国語辞典を開くと確かにその意味もあるが、その中に(原点に立ち戻って)という解説が目に入った。原語(ヘブライ語・シューブ)の意味から言うと、「立ち帰る」「向きを変える」。聖書の別の表現で言えば「悔い改める」(30、他)ということである。
人には今の状態から変わりたくないものが、誰にでもある。私の知っている人のお母さんが、息子を通して教会には好意をもっておられるのだが、教会には来ようとしない。「どうして」と聞くと、彼から「母は今までの状態から変わりたくないんです」という返事が返ってきた。これはある意味で大変分かりやすい言葉である。
私たちは、キリスト者として、またその道に生きる者として、み言葉に聴き、週の始めの日を「主の日」として大切に守るという、他の人たちとは異なった生活の形態をとっているが、それでも、変わりたくないものを自分の内にしっかり持っている。
生活が習慣を作るとも言われるが、習慣が私たちの生活を、性格さえも形造るとも言える。そして、私たちの生活面での習慣には、キリスト者になっても持ち続けるものがある。サン、テグジュペリの「星の王子さま」に出てくるバオバブの木について、主人公は確かにこう言っている。「バオバブの木は、気をつけて刈っていかないと、どんどん大きくなって星さえも突き破ってしまうんだよ」と。
夜は必ず、疲れ直しにお酒を飲んでいた人が、バプテスマを受けてから、聖書を読まなくてはいけないので、お酒をやめたということを、御本人から聞いたことがある。イスラエルの民は神から選ばれて、「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。」(申6:5)との戒めを頂いたが、これは単なる戒めでなく、この3つの言葉から、私たちの想像を超えた世界が広げられていくということ、またそこに神のみ心があることを思う。
しかし、イスラエルの民は、神を知らされていながら、またその名を口にしながら、心の中に偶像をもっていたということが、14章の始めに記されている。「ここにイスラエルの長老のうちのある人々が、わたしの所に来て、わたしの前に座した。時に主の言葉が、わたしに臨んだ、「人の子よ、これらの人々は、その偶像を心の中に持ち、罪に落としいれるところのつまずきを、その顔の前に置いている。わたしはどうして彼らの願いをいれることができようか。・・・・」(1〜3)、また「イスラエルの家の者およびイスラエルに宿る外国人のだれでも、わたしから離れ、その心に偶像を持ち、その顔の前に罪に落としいれるところのつまずきを置きながら、預言者に来て、心のままにわたしに求めるときは、主であるわたしは、みずからこれに答をする。」(7)とある。「その心に偶像を持ち、その顔の前に罪に落としいれるところのつまずき(=自我・欲望など)を置いて」というのは、今日においても言えることではないか。しかもそのような状態で、自分は神を信じているのだから、何か生活の指針になるものが欲しいとか、助けが欲しいという気持ちは、ここに登場する長老たちと同じである。「それゆえイスラエルの家に言え、主なる神はこう言われる、あなたがたは悔いて、あなたがたの偶像を捨てよ。あなたがたの顔を、そのすべての憎むべきものからそむけよ。」(6)とある。
一番大切にしているものが偶像であるとしたら、私たちは何を心の中に偶像として持っているか。自分で気がついていても、あるいは気がついていなくても、何が本当に大事か。何を大事にしているか、ということは、いつも考えていなくてはいけないことである。また、「その顔の前に罪に落としいれるところのつまずきを置きながら」とあるが、それは、わたしたちのこととして言うなら、本当にはキリストにあって死んでいないというか、あちこちに気が動くということではないか。
「心の中の偶像」を、自分はこうしたい、変わりたくないというものとして考えると、私たちはそれぞれにそのようなものを持っているような気がする。先程、「翻える」という言葉のイメージを旗の風にひるがえる様を言ったが、「翻って生きよ」というのは、まさに、原点に立ち返ってそこから生きよ、ということである。ヨハネ第一の手紙4章に、「わたしたちが神を愛したからではなく、神がわたしたちを愛して下さって、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(10)とある。
神がまず、私たちを愛して下さって、その愛を、御子イエス・キリストにおいて、私たちに明らかにして下さり、私たちをその中で生きるものとして下さった。これが「福音」である。しかし、私たちは、持って生まれた性格とか、まわりの環境によって変わっていくものを持っている。そういう意味で、この私を愛して下さる神の前に、自分の生活や心のうちを照らして頂く、点検の時が必要である。何故なら、私たちは常に、神の目の内にある苗木として育っていくことが求められているからである。もう一度、31・32節(表記)をお読みします。