信仰に立って、いのちを得る者

32あなたがたは、光に照らされたのち、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してほしい。 33そしられ苦しめられて見せ物にされたこともあれば、このようなめに会った人々の仲間にされたこともあった。 34さらに獄に入れられた人々を思いやり、また、もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って、自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだ。 35だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。 36神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。 37「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。 38わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない。」。 39しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。
ヘブル人への手紙 10:32-39

今日、明日と恒例の今池まつりが催され、当教会は、主として音楽プログラムのメイン会場として宣伝されている。今池まつりは、この今池界隈の街興しとして、商店街を中心に始まったもので、今年で13年目。この教会が今池まつりのメイン会場の一つとなって8年目を迎える。私の着任当時からあった仲屋パンの今の若主人が、今池まつりの実行委員の一人で、音楽に深い関心を持っておられ、会堂を使わせてもらえないかと頼みに来られた。彼は写真にも造詣が深く、「教会コンサート」の最初のポスターは、彼が撮った教会の正面写真をバックに作られた。50年近く使ってきた古い扉も写っている。現在の扉は、教会創立50周年記念事業の一つとして、中のドアと一緒に今年新しく取り付けられたものである。

最初のポスターは非常にお金がかかったということで、その後の今池商店街連合会で作られる「教会コンサート」のポスターは、図案化されたイラスト風のものになっている。今池まつりに教会が開放されてから、一度も足を踏み入れたことのない方たちが、とにかく教会に入るきっかけにはなった。教会のベルクワイアも加わり、催物にもよるが、この2日間で80〜150名位の人たちが、常時出入りしている。

今、火曜日の早朝アシュラム、水曜日夜の聖書の学びに出席しておられる星さんという壮年の方も、教会の中に初めて入ったのは、この今池まつりに夫人と音楽を聴きに来た時とお聞きした。今日は会場の準備で、商店街の青年部の方たちが昼すぎには来られるので、CSの分級を早目に切上げるよう御協力頂きたい。また、夜は夜で道路に張りめぐらされた提灯に明かりがつき、さまざまな出店が並んで、この横の通りは人出で溢れるが、去る11日、アメリカで起った同時多発テロ事件は、大きな衝撃、抜き難い暗さとして人々の心に沈んでいくのを感じる。

もう2週間近くまるが、今も行方不明のままの人たちの捜索と、山のような瓦礫の撤去作業は休みなく行われている。ビルの下敷きになったのか、判明した行方不明者の数は日毎に増えて6,000名近い。東京・常盤台教会の会員で、名古屋に転勤で来られた篠さんも、崩壊したあのビルの中にいた友人の消息が今も分からないと言っておられた。テロリストたちにとっては、旅客機をハイジャックしてビルに突っ込むという予定の自爆行為であるが、彼らは関係のない多くの人々を巻き込んだ。その信条は別として、決して赦されない行為である。私たちはこれからアメリカや日本政府、そして世界の国々の動きを賢く判断し、しっかりした意見を持つことが必要である。

今朝はヘブル人への手紙10:32〜39から読んで頂いた。最初は26節から読むことを考えていたが、この後CSで学ぶテキストとの関連を考えて32節からとした。ただテキストとしてはあまり取り上げられることのない26〜31節の言葉—もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない(26)—というところは、心に留めて、改めて読んで頂きたい。

さて、今朝の宣教題を最後の39節「しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である」から取らせて頂いた。「信仰を捨てて」という言葉が(ハバクク2:3〜4)の中の38節にも「もし信仰を捨てるなら」という表現で出てくるが、これは意訳で、原文は「たじろぐ、尻込みする」の一語で記されている。新共同訳は「ひるむ」という訳語を当てて、「ひるんで滅びる者ではなく」「もしひるむようなことがあれば」と訳し、新改訳は「恐れ退(しりぞ)く」という訳語を当てている。

手持ちの辞書で調べると、「たじろぐ」というのは、「相手に威圧されて後退する」こと、「相手の力に押されてよろめく」ことであり、「ひるむ」というのも「勢いに押されて気力がくじける」こととある。このことは、信仰に歩む者の歩みを、たじろがせ、ひるませるような力が身近に、常のこととして働いていた、状況としてあったということである。

「あなたがたは、光に照らされたのち、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してほしい。」(32)とある。「光に照らされた」というのは、「光を受けて」(6:4)や「真理の知識を受けた」(10:26)と同じ意味で、キリストの信仰に与ったということである。「苦しい大きな戦い」とあるが、「大きな」は、「多くの」とも読める。恐らくいろんなかたちでの嫌がらせや迫害が、常にあったに違いない。

ここでは、彼らがそのような戦いによく耐え、さらに獄に入れられた人々を思いやり、また、もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って、自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだとある。この「永遠の宝」とは言葉を替えて言えば、確かな自分の居場所、帰るべきところが与えられていると解してもよい。人の一生、そのいのちは、単に肉体の死をもって終わらないということである。次に「神の御旨を行って約束のもの(「永遠の国」ヘブル9:15)を受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」とある。

「忍耐」と訳された原語の意味は、「(重荷)の下に、留まる」ということ、逃げないで、踏み止まることである。それも、仕方なしに耐えるとか、我慢するということでなく、喜んで、あるいは安心をもってそこに身を置くということである。勿論そのような力が私たちにあるということではない。その力の源、根拠は、何よりも、神御自身が、私たちを忍耐して下さっているということである。

パウロはこのことを、「忍耐と慰めとの神」(ロマ15:5)と語り、「どうか主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせて下さるように」(Uテサロニケ3:5)と記している。ペテロもまた、「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。しかし、主の日は盗人のように襲って来る。」(Uペテロ3:9−10a)と記している。

今は聖書が書かれた当時のような迫害はないが、それでも信仰を与えられていることが困難や苦しみを伴わないということは決してない。「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜っている。」(ピリピ1:29)という事情は少しも変わっていない。ただ私たちの戦いは一人のことではない。この後の12章に「こういうわけで、わたしたちはこのような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競争を、耐え忍んで走りぬこうではないか。」(1)とある。

「いっさいの重荷」「からみつく罪」を、私たちはどう理解するか。何が大切かがはっきりしないと、主の日の礼拝を守ることさえ重荷と感じられるようになる。また、私たちの欲望はキリストの光にその実体が照らされなければ、それが「からみつく罪」となっていることさえ気付かないことが多い。私たちは、み旨によって、神を知らされた者、主を讃美し、また伝える者と期待されていることを思い、忍耐の苦しみに負けずに、信仰に立って、いのちを得る者となっていきたい。

2001年9月23日(日)主日礼拝宣教要旨

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