先週一週間も暑い毎日だった。広告のチラシに激夏という、始めて見る言葉があった。東京だったか、蔭の歩道を歩いていて倒れたお年寄りのことがTVで放映されていたが、その時の説明で、ビルの建物や車からの放射熱もあって、実際は報道気温に更にプラスされたものであることを知った。また先週は、高蔵寺に保田井先生御夫妻をお訪ねした。御夫妻共お元気で、お二人は離れのようなお部屋に起居しておられるが、いつもなんとも明るく、平安な雰囲気に包まれる。先生は大抵、ベットの上に座って私たちを迎えて下さるが、涼しくなったら是非教会の礼拝に出たいと言っておられた。
浅野繁八郎さんは、今日は在宅だが、週に3回、ケアハウスで過ごされる。正子さんは、「頭の先から足の先まで、清潔にきちんと整えるのにそれは大変です」と言っておられたが、先日、お迎えのバスに、先から乗っていたおばぁちゃんが、繁八郎さんのことを、「私、浅野さんが大好きなの、プラトニックラブなの」とか言われたそうで、施設の人が、「元学校の先生だけあって、言うことも洒落ている」と言われたとか。何か、暑さの中に涼しい風が吹くような楽しさを覚えた。正子さんは、体力が途切れては横になったりして、家の用をしておられるそうで、それでも教会のトイレ掃除の奉仕だけは続けたいと、先週の金曜日にも来て下さった。それぞれが時間と体を献げて下さることで、教会が整えられていっていることを感謝したい。
さて、今日は、暑さの連続から少しでも涼しくと、詩篇一篇を選ばせて頂いた。宣教題を3節からとって「流れのほとりに植えられた木の」としたが、この「流れ」というのは、天然の流れではなく、田畑に水をひくために作られた潅漑(かんがい)用の水路のことである。エジプトと違ってパレスチナではこの種の川はめずらしい。「流れのほとり」というのは、この水路のそば近くの意である。「植えられた木」に関連して、詩篇92に、「正しい者はなつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏のように育ちます。彼らは主の家に植えられ、われらの神の大庭に栄えます。彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、主の正しいことを示すでしょう。主はわが岩です。主には少しの不義もありません。」(12−15)とある。
「年老いてなお実を結び」というのは、それがいのちをもつ木だということである。「年老いてなお」というのは、年令に左右されないということ。しかも、いのちの源である神にしっかり結びついているから、そこから流れるいのちの力は尽きることがないということである。「つながっている」ということは、自分の力や努力によらずに、神との関係において与えられる力によるということである。次に「時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。」(3)とある。
著者は最初に主に祝福されている人の姿を描き(1−3)、その後に、主の祝福を受けない、というより、その関わりを拒んで生きる人の様を「風の吹き去るもみがらのようだ。」(4)と記している。しかし、現実には正しい人(神に心を向けて生きる人)のなすところが皆栄えるとは言い難い。
6節に「主は正しい者の道を知られる」とある。このことについて、詩篇37:7−8に、「主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに心を悩ますな。怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。」このような激しい言葉が書かれているということは、この世の中を神を主として、そこに信頼と重心を置いて生きるということが、そんなに容易でないことを示している。
また、詩篇17:14に「主よ、み手をもって人々からわたしをお救いください。すなわち、自分の分け前をこの世で受け、あなたの宝をもってその腹を満たされる世の人々からわたしをお救いください。」とあり、「しかしわたしは義にあって、み顔を見、目ざめる時、みかたちを見て、満ち足りるでしょう。」とも書かれている。申命記に「見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。」(30:15)とあり、「あなたは命を選ばなければならない」(同 19c)とある。
私たちは、その日その日を自分なりに、誠実に生きているようであっても、それが、一体何に向かっているのか、取捨選択の基準をどこに置いているのか、ということを考えることは大事なことである。
こうして、私たちが教会に集まって礼拝を守り、聖書のみ言葉に聴くということも、私たちには気がつかないが、神のみ思いとか御計画の中にあるのだということを、「流れのほとりに植えられた木の」という主題に沿って、自分のこととして、私はどこに自分の根をおろしているか、私は何によって自分を保っているか、何を喜びとしているか、ということに対して、振り返る材料にしてほしい。
しかも、このことは、決して徒労に終わることではなく、神の祝福とみ栄につながるものであることを覚えてほしいし、自らの生活の中で証しする者となっていってほしい。今、大変な暑さが毎日のように続いているが、どんな日照りの暑さの中にも枯れないものを、私たち自身の心の中に見ていきたいと思う。