祝福を受け継ぐ

8最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。 9悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。 10「いのちを愛し、さいわいな日々を過ごそうと願う人は、舌を制して悪を言わず、くちびるを閉じて偽りを語らず、 11悪を避けて善を行い、平和を求めて、これを追え。 12主の目は、義人たちに注がれ、主の耳は彼らの祈にかたむく。しかし主の御顔は、悪を行う者に対して向かう」。
ペテロの第一の手紙 3:8-12

昨日、2日(土)午前10時過ぎに、城崎はなさんが入院先の名古屋掖済会病院で亡くなられたことを、城崎幸子さんからのお電話で知った。死とはいつか来るものであることが分かっていても、分からないというか、やはり突然のようなショックを受けている。別のところでは、西原実樹さんが、1日(金)午前10時すぎに男児を出産された。聖書は、いのちあるものは皆、死の時を併せもつものであることを繰り返し語っているが、この事柄だけは特に受け止め難い性質のものである。そういうことを踏まえた上で、今日の箇所は、私たちがこれだけは弁(わきま)えておかねばならないと思われることについて、ペテロが語っているところである。

この手紙は、彼が殉教の死を遂げる(64年頃) 数年前に、ローマから当時の小アジアの地域(今日のトルコ領で、その頃はローマの支配下にあった)に散らされ、信仰の故の迫害に直面していた人たちを支え励ますために書かれたものである。その迫害がどんなものであったかは、手紙の中の「さまざまな試練で悩まねばならない」(1:6)とか、「愚かな人々の無知な発言」(2:15)、「義のために苦しむ」(3:14)、「善をおこなって苦しむ」(3:17)、「降りかかって来る火のような試練」(4:12)、「キリストの名のためにそしられる」(4:14)、「苦しみの数々に会っている」(5:9) 等々の言葉から推察することが出来る。

今日では、信仰の故に迫害を受けたり、いのちの危険に晒(さら)されるということはない。しかし、キリスト者として生きていくためには、さまざまな戦いや試練を避けることは出来ない、という意味では今も変わらない。また、私たちが、この世にあって旅人、寄留者の感覚で自らの人生を歩んでいるというところも共通する。私たちには、この世に生きているということにおいて、またキリスト者であるということにおいて果さなければならない責任、負わなければならない重荷、それに伴う苦しみや悲しみが、避け難くある。今日の箇所は、私たちの置かれた状況に、改めて目を開かせると共に、それらに対してどう処すべきかを示している。

ペテロが「最後に言う」と言って最初に語るのは、「あなたがたは皆、心をひとつにし、・・・・」ということである。今の私たちに当てはめて言うなら、「キリストの体」を建て上げていくことにおいて、ただ主の御名の崇(あが)められることを願うことにおいて、ということになる。教会には、実にいろんな人がいる。育った環境も、受けた教育も、性別も性格もみな違う。

「初代教会」においては、人種、階級、言葉、習慣等々の違いも加わってその状態はもっとひどかったと思われる。「心をひとつにし」というのは、個々の心をなんとかして一つのものにするということではなく、原意は「一つ心で」「同じ思いで」ということである。「同情し合い」という言葉が続く。「同情する」という言い方は、相手を気の毒に思うとか思いやるという意味でよく使われるが、これはむしろ、情を同じくするということである。それは、時には悲しみの情であったり、怒りの情であったりする。

原語は「共に」と「感じる、経験する」の語が合わさった一語で記されているが、ここでの意味は「苦難を共にする」ということである。また「あわれみ深くあり」という言葉がある。これは、相手の存在に対する鋭敏で温かな感性をあらわす言葉であるが、もっと言えば、自分を離れた心のことである。福音書の中には、主イエスのお心の表現として、「深くあわれまれた」という、同じ言葉が何度か出てくる。例えば、「イエスは・・・・また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。」(マタイ9:36)とある。(他に14:14、20:34、マルコ1:41、6:34、ルカ7:13ーここでは「深い同情を寄せられ」という訳になっている)これは、主イエスが、神のお心を知っておられたということと深く結びついている。

先程、「あわれみ」とは「自分を離れた心」という言い方をしたが、それは「父である神のお心を知って」という意味である。私たちの身近なことで言えば、子どもが何人かいる家庭の長男、長女といった年上の子どもは、否応なしに、親の立場で他の弟や妹のことを考えることになる。相手が自分よりも小さいからとか、また親の手の足りないところを、親から言われてやるかたちにしても、手助けをするように訓練されるが、私たちも神のみ心を知らされた者として、神を知らない人の状態を、自分のこととして受けとめるということを示されている。そのことが、祝福を受け継ぐ者としての、つまり、一つの家庭で言えば、親の子としての、親の心を最初に受けた者としての義務でもあり、祝福でもあるということである。

今、水曜日に箴言を学んでいるが、先週は24章だった。その中に、「あなたのあだが倒れるとき楽しんではならない、彼のつまずくとき心に喜んではならない。主はそれを見て悪いこととし、その怒りを彼から転じられる」(17,18)という言葉がある。私たちは、どうしても、自分の心や自分の状態が快適であるかどうかということに支配されるが、しかし、人が生きるということは、回りの人との関係が自分にとって快適かどうかによってだけで決めていっていいというものではない。今の世界の構図にしても、自分の国のことだけ考えていると、他の国のこととか、地球全体の環境のこととかが考えられなくなる。しかし、それが人間である。人間というのは、そういう意味では動物と変わらないものを内に持っている。

しかし、神が御自分のかたちに人を創造された(創世記1:27)ということは、同時に、この世界に対する神のみ心が先にあるということである。私たちは、自分には今、必要でないとか欲求を感じないというところで、全てを取捨選択してしまうこの世に在って、折角頂いた神の祝福の恵みをしっかりと受け止め、また、それを人に手渡しの出来る道が既に備えられているということを心に留めたい。私たちは、只生きるために生きているのではない。私たちが生きるのは、只自分のためにではなくて、イエス・キリストにおいて、神の愛、み心を知らされた者としての視点で生きるということである。私たちは、たとえ身体が不自由になっても、年老いて何も出来なくなっても、それが自分の価値を下げることには決してならない。

私たちの価値は、神の愛を知っているということ、その方に愛され、覚えられていることを知っているということにある。また、自分が、神のみ心にそっていけるように求めて祈ると同時に、他の人のことを覚えて祈ることが出来るということ、また、祈れる者として備えられているということを、更に深く心に留めたく思う。

2001年6月3日(日)主日礼拝宣教要旨

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