先週ひとりの人から手紙をもらった。教会には直接関係のない方だが、そこには定期が満期になり、今では考えられない利子がついていて、こんなことならもっと貯金しとけばよかったと思ったが、十年一日で、よくも生きてこれたと思ったが、また、くだらない人生だったということが書かれていた。最後の言葉が気になったが、その人は回りに気を使い、何事にも落ち度なく最善を尽くしてきた人で、客観的には、自分の生き方に悔いはないと言える程の人であるが、一方では、いつも夫の側の身内に対する怒りとか、嫌な思いとか、そういった感情に支配されてきたということで、自己嫌悪も含めて、くだらない人生という言い方をされたのではないかと理解した。
同じようなことはいくらでもあるのではないかと思う。自分の人生を振り返って、本心から、十分に有意義であった、素晴らしかったと言える人は少ないのではないか。回りに、相手に、全ての責任を向けることは出来ないが、自分の人生は家族に振り回されてきたという話はよく聞く。人生にはいろいろなことが起きる。しかし、そうした中で、唯一確実なことは、イエス・キリストが、私たちのために神への道筋をつけて下さったということである。
聖書には、人は神に創られたものであり、人生というのは、そのことを知って、神のもとへ帰るための道中であるということが語られている。宣教題を「この世の旅人、寄留者として」としたが、これに似た言葉が他にもある。創世記12章に、後に「信仰の父」と呼ばれるようになったアブラム(アブラハム)が神の言葉に触れて、ハランを出立する時のことが記されているが、23章に、彼がカナンの地ヘブロンで死んだ妻サラを葬るために、墓地を求めて土地の人たちと交渉するところがある。その時、彼は「わたしはあなたがたのうちの旅の者で寄留者ですが・・・・」と語っている。
次はレビ記25章に、これは主がシナイ山でモーセに語られた中の一節であるが、「あなたがたはわたしと共にいる寄留者、また旅びとである。」(23)という言葉がある。そして、歴代志上29章では、時の王ダビデが祈りの中で「すべての物はあなたから出ます。われわれはあなたから受けて、あなたにささげたのです。われわれはあなたの前ではすべての先祖たちのように、旅びとです、寄留者です。われわれの世にある日は影のようで、長くとどまることはできません。」(14,15)と言っている。
また詩篇39(ダビデの歌)には「主よ、わたしの祈を聞き、わたしの叫びに耳を傾け、わたしの涙を見て、もださないでください。わたしはあなたに身を寄せる旅びと、わがすべての先祖たちのように寄留者です。」(12)とある。(他に詩119:19、 54) このように人生を旅として受けとめるに似た考え方は、日本にも昔からあった。昨年10月、川上牧師(当教会出身)のおられる山形教会に行った時、集会が終わってから、御夫妻に案内されて今までは名前しか知らなかった蔵王に登ったが、その時立ち寄った山寺に芭蕉記念館が建っていた。
芭蕉が門人の曾良と「奥のほそ道」の旅に出たのは1689年、今から312年前のことになるが、「芭蕉が山寺に到着したのは、7月13日(新暦)の夕方頃で、麓の宿坊に荷物を預けた芭蕉は立石寺に登り・・・・」と案内書にあった。何よりも芭蕉(彼は現在の三重県上野市の出身)の名を山形で聞き、不思議な感じでその旅のことと、旅の中で逝った芭蕉の人生を思った。旅に行くと書いて旅行と読むが、やはり旅行と旅とは違う。そして、人生を旅という感覚でとらえることも、いつの間にか、私たちの中からなくなったような気がする。それにしても芭蕉は何を求めて旅を続けたのだろうか。
ヘブル人への手紙に「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確認し、まだ見ていない事実を確認することである」(11:1)とあって、「信仰によって・・・・は何をした」「信仰によって・・・・はどうされた」ということが、旧約の人たちの名と共に記され、「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり、寄留者であることを、自ら言いあらわした。」(13)とある。
そして、ペテロもまたキリスト者の人生を、神の国を目指して生きる旅としてとらえ、旅人、寄留者としての、この世における生き方を示している。ペテロは、まず、この手紙の読者に、自分たちが(神に)愛されているひとり、ひとりであることを自覚させ、予測される事態に対して、どうすべきかを示している。その一つは、「たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい」ということである。「たましい」は人格としての人そのものをさしている。
また、「肉」というのは、単に体のことではなく、神からはずれた人の状態を形容する言葉である。パウロはガラテヤ5:19−21で「肉の働き」をいくつも挙げているが、そのうちの多くは、自分ひとりに起因する罪というよりも、他との交わりを破壊する関係的なものである。ペテロはその「肉の欲」に立ち向かうのでなく、「避けなさい」と語る。「避ける」とは遠ざかるということである。遠ざかることにおいて、その支配に身をまかせないということである。そして、旅人、寄留者ということに即して言えば、その「先」のためにということになる。
いずれにしても、私たちは自分を過信してはならない。次に「異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。」とある。「異邦人の中」というのは、ある意味で、キリスト者の厳しい環境を意味している。「りっぱな行い」の「りっぱな」というのは、ただ「すぐれている」ということでなく、美しい、愛らしい、魅力のある、という意味でもある。「そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て・・・・」とある。初代教会の人たちが、「悪人呼ばわり」されていたのは、異教の習慣や祭儀に加わらなかったからである。そのために彼らはしばしば、反動分子のように見られていた。人は自分たちと習慣や感覚が合わない者に対して、その違いが憎しみに変わるものを内に持っている。その事情は、21世紀を迎えた今日においても変わらない。
「あなたがたのりっぱなわざを見て」とあるが、見られることを意識して、そのことで何かをしたり、しなかったりということではない。自然な日常の振る舞いが、違ったものとして目にとまるということである。よく、自分は自然体でいくとか、生きるということを聞く。いい言葉ではあるが、自然体で生きるのは容易でない。バークレーという聖書学者は「人間は肉の存在である」「欲をもった存在である」と言っているが、自然体という言い方で、実際は、自分のやりたいことを、やりたいようにやっているだけということもある。自分の生き方は自然体だと言う人に対して、人は自然体で罪を犯すのだ、と言ったことがある。
「生まれながらの人」という言葉が聖書にあるが、人はありのままの自然体で罪を犯すとも言える。運動のことを考えても、体が自然に動かせるためには、体が自然に動くような訓練を常に心掛けていなければならない。信仰生活も同じである。キリストを信じたからと言って、すぐに信仰の自然体で生きれるものではない。日曜毎に迎える主の日の礼拝でも、只、時間があるから、来れるから来ているということで守れるものではない。
それぞれ、口には出さないさまざまな事情の中から、苦労や戦いを経て、礼拝に集まっておられるのである。決して自然体で来ておられるのではない。礼拝に参加することが自然体である人には、それ以前の戦いや努力があるということを思わなくてはいけない。そういう意味で、信仰生活というのは、自然体で生きるための自分に対する戦いとも言える。
その私たちにとって大切なことは、主の語られた「おとずれの日」から目を、歩みをはずさないということである。
この世を旅人、寄留者として生きるということは、相当にきびしいことである。それはパウロの言うように、国籍を天に記された者として(ピリピ3:20)この世を生きるということ、まさに、キリストにあって新たに生まれた者、創られた者として、神の国を目指して生きるということである。このことをそれぞれ自分の人生の中で、まさに旅の道中においてつかみとっていってほしい。これが私の願いである。