教会の新しい年度が、今日4月1日から始まる。年度の最初の日を「主の日」として備えられ、また、幾人もの先生方が御夫妻で、この礼拝に参加して下さり、何か満開の桜の中にいるような気持ちである。初めに御紹介させて頂くと、高蔵寺にお住まいで、今までも随分お世話になった保田井善吉先生、美代子夫人(御夫妻はこの度、調布教会から籍を移され、名古屋教会のメンバーとなられた)と、御子息で、この5月から東熊本教会に赴かれる保田井 健先生御夫妻(3月まで調布教会)、この3月で平針教会を辞して、長崎の大村古賀島教会に赴かれる田中先生御夫妻とお子たちである。先生方のお働きと御家族の健康を、お祈りに覚えて頂きたい。
さて、今日の聖書箇所は、この後の教会学校の各クラスで学ぶテキストと同じで、宣教題を、15節からとって「時は満ちた」とした。この言葉から受ける印象は、戦いの用意が出来た、あるいは、いよいよその戦いの時が来たということであるが、聖書のこの言葉は、イエス・キリストにおいて、新しい時が始まった、ということである。
そして、ある意味で、この「時は満ちた」という言葉は、どのような状態の私たちにも、常に当てはまると言える。以前、ボランティア宣教師として、御夫妻でタイに赴かれ、今度、婦人連合の会長になられた江原都代子さんが、その著書の中で、声楽の先生に「もっと早く習っておけばよかった」と言ったら、先生から「今があなたの一番若い時ですよ」と言われた、ということを書いておられたが、そういう意味では、この今の時が私たちの一番若く、そして、私たちの本当の時でもあるということを、改めて心に深く留めたい。しかし、それはまた一番難しいことでもある。今の時の中に生きる自分に対して、本当に満足している人は少ないのではないか。年を重ねてきた人には、それだけ過去の自分の姿があるし、若い人は、未来に自分の姿や意味を見出そうとして、結局、今がはっきりしない。しかし、存在しているのは、紛れもない今の私である。
ヨハネ黙示録に、「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(3:20)という言葉がある。ホルマンハントという画家は、この場面を一枚の絵にした。それは、茨の冠を頭に、片手にランプを持って、一面に蔦の張ったノブのない戸を外からノックしているキリストの姿である。これに対して、絵としては描き難いと思うが、現代というのは、むしろ、神の国の戸口に私たち自身が立ったまま中に入ろうとしない、あるいは中に入っても奥までは行こうとしていない、そんな姿を思い浮かべる。
しかし、事実イエス・キリストにおいて、新しい時が到来したのである。15節をもう一度読むと、「時は満ちた、神の国は近づいた。」とある。この「国」(バシレイア)というのは、もとはバシレウス=王、支配者から派生した「王国」のことである。新共同訳は、正確を期して「神の王国」という訳語を当てているが、大切なのは、「王国」のイメージよりも、誰が王であるか、神が王である、神が治めておられる、ということである。そして、その「神の国」が、イエス・キリストによって、私たちに近いものとなった。パウロは、エペソ人への手紙の中で、「あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。」(2:13)と記している。
次に、「悔い改めて福音を信ぜよ」とある。「悔い改めて・・・・」というのは、生き方の向きを変えてということである。言葉を替えて言えば、神の前にいる一人の人間として、自分を認めよ、そして、福音に生きよということである。人は自分で自分を何者かのように思ったり、逆に自分を卑下して見たりする。しかし、神は決して私たちを今の私以上にも、また、以下にも評価されない。ただありのままの私を受けとめ、愛し、また御自分の御用のために用いたいと願っておられる。いつもこのことを心得ておくことが大切である。
主イエス・キリストは、宣教活動に入られる前、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたが、その時、起こったことが次のように記されている。「水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。すると天から声があった、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』。」まさに、人の目には見えないが、主イエスは神の御思いを受けられたのである。私たちは神の御思いをどこで受けとめ、また力の基としているか。
私たちは、どんなに自分の知力を尽くして、自分なりの城を築いたとしても、荒野はいつもそばにあるのである。主イエスは、どのような状況にあっても、神からの平安の中におられた。荒野で試みに合われた時も、それに巻き込まれないで、神の言葉で誘惑に打ち勝たれた。イエス・キリストによって示された神の愛が、私たちそれぞれに備えられていることを共に信じ、受けていきたく思う。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。」(Uコリント5:14)