道をまっすぐに

10肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。 11すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。 12それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。 13また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。 14すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。 15気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。 
へブル人への手紙 12:10−15

私たちの教会では、2月をスチュアードシップ月間として守ることになっている。旅客機などに乗務して、機内サービスをする女性のことをスチュワーデスと呼び、男性のことをスチュワードというが、スチュワードという言葉には、執事、家令(家や土地の持主からその管理を任された人)という意味がある。スチュワードシップというのは、主人から管理を任された者、仕える者の心構えのことである。私たちにとって「スチュワードシップ」というのは、何か特別なことについての学習というより、何を大切に守り、何を第一としていくかという、キリスト者としての、生き方についての学びのことである。

このことから、私は主イエスの語られた有名なたとえ話を思い出した。そのたとえは、「ある人に、ふたりの息子があった。」で始まる。(ルカ15:11−32)弟息子は、兄と共に父親のもとで成長し、いつの頃からか、自分でいろんな外の世界を経験してみたくなった。それまで、父親の大きな農園を手伝っていたが、彼は自分とあまり年の違わない、外の場所に出かけたことのある友人たちから、刺激的な話を何度か聞かされていたのではないか。若い彼にとっては、父のもとで羊を飼ったり、作物を育ててその実りを喜ぶ生活よりも、外の世界に対する魅力が強かった。父の子としてどのような生き方がいいのか、父は自分に対してどんな思いや期待を抱いているのかを考えることは出来なかった。彼はむしろ、自分で思うように生きてみたかった。そこにおいてはいつも「自分」が第一であった。

しかし、その姿は、現代の私たちに共通して言えることではないか。人はさまざまな取り決めや、縛りの中で生きているものの、本音のところでは、やはり「自分」を中心に動いていきたいのではないか。自然も大地も意のままになるもの、在ることが当然のものと考え・u毆)て、どう快適に生きるかということだけが人間の文化の、あるいは歴史の中心になっているところに、現代の最も深い問題の値があるのではないか。

弟息子は、恐らく本当に自分が生きていけなくなったというか、立ち行かなくなった時に始めて、「本心に立ちかえって」(17)という言葉がある。父のことを思い出したのである。彼には思い出す「父」があったが、現実にはその「父」すらもいなくて、只、自分の欲望の中に、身を滅ぼす人が多いような気がする。この弟息子に私たちを当てはめて考えると、彼は当然のことのように、いずれ自分が貰うはずの父の財産を手に家を出た。

しかし、そうした彼の人生とは何であったか。結果的には「放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した」(13)ということになるが、彼自身は、その中で自分の能力とか可能性、喜びを中心に、むしろ生きているという実感を味わったのではないか。「放蕩に身を持ちくずして」という言葉があるが、彼自身が求めてそうなったというよりも、必ず、そのように誘う悪い仲間が回りにいたはずである。箴言には、鳥が網にかかるように、そのことを企んでいる者がいる。人の血を流すことに何とも思わない者がいる。あなたはそういう者たちの仲間になってはいけないと教えられている。

また、遊女にとらえられると、それは死の床に行くようなものだ。なめらかな舌に惑わされてはいけない、という言葉が記されている。丁度クモが柔らかな糸で獲物を捕らえ、その自由を奪ってしまうように、それだけが目的のような者・物の虜(とりこ)に、彼もまたなったのだろう。しかし、人は自分が心地よければ、それが何であれ、囚われている、支配されているというようには感じないものである。そこが問題なのであるが、やはりそういうことに対しても、目が覚めるというか、そのように私たちを仕向けてくれるのが聖書のいましめなのである。

聖書では、神はあなたを愛しておられる、ということが中心に語られている。また、神の心・愛を示すためにイエス・キリストはお生まれになった。イエス・キリストの十字架は、私たちに神の愛を示し続けるものである。しかし、神の愛というのは、エスカレーターが上の階に私たちを運んでくれるようには、私たちを神の国に運び入れてはくれない。むしろ、それは山に登るようなかたちで、自分自身を天候から守り乍ら、しかも、ある意味で困難に耐え乍ら、足を前に伸ばすように、意志と努力を要するものである。

「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。」(14)とある。「努める」(ディオーコー)とは、熱心に追い求めることであって、ある状態を保つことではない。そして、登山には必ず困難や苦しみが伴うように、また、競技の選手が疲れを覚えるように、気力も体力もなくなってくる。

「あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい」(12)とある。イザヤ35:3にも「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。」という言葉があるが、いずれも失望落胆、意気消沈の状臓を形容した表現である。これは手紙を手にした全ての人に語られた言葉であるが、特に、弱さを覚える人たちを支え励ますようにというメッセージでもある。自分のことだけでなく、神に等しく愛されている者として、同じ群れの、回りの人への配慮を促す言葉である。スチュアードシップというのは、そういうことでもある。

競技の場合、次から次へと新人が登場してくる。岐阜県出身の高橋尚子さんが昨年、シドニー・オリンピックの女子マラソンで金メダルを獲得して、多くの人から絶賛を浴びたが、もう次の選手が出番を待っている。

記録は何分の1秒の差出、次から次へと更新されていく。信仰の道は、ある時点に到達したらそれで終わりというのではないが、また到達したからといって、特別な絶賛を受けるわけでもない。それは、どれだけ私たちが生きている間。真実に、神に向かってまっすぐ歩くか、あるいは走り抜くかということである。自分の思いだけては、本当はまっすぐには歩くことも走ることも出来ない。主を仰いでいく(ヘブル12:2)ということは、そこに、自分の考えとか思いを入れないということ、むしろ、神はこのことをどう思われるかと、謙虚に反省しながら、み思いに応えていく、従っていくということである。そして、私たちがあるところまで到達すると、それは苦しみでなく、そこから自由になれる。只、自分が自由になれるだけでなく、他の人の力になることも出来る。

「気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい」(15)とある。私たちは、自分の欲望とか思いに簡単に負けないで、やはり、戦う楽しさも訓練として身につけていきたい。ある意味で、必要のためには余分なものを切り捨てる。これは最も分かりやすいことではないか。また、これこそ私たちを自由な、スチュワードにしていくことではないか。

2001年2月4日(日)主日礼拝宣教要旨

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