神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた

1それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。 2というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。 3ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、「わたしが怒って、彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように」と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。 4すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、 5またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。そこで、 6その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、 7神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。
へブル人への手紙 4:1-7

日曜日=休日という制度は、1874年(明治7年) 官庁が欧米から取り入れ、制度化したもので、西洋暦と同様、聖書にその起源をもっている。今日の話は、そのことに関連する。「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」は、もともと創世記2章2節の引用であるが、この「休まれた」とはどういうことか。ヘブル4:1−7(−13)を通して語られる「神の安息」と、私たちの生の関わりについて共に考えたい。

創世記1−2章に記された天地創造の記事ほど、壮麗で素晴らしい文章はない。そこから少し抜き読みをすると、1章14・15節に「神はまた言われた、『天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ』そのようになった。」とある。

実に壮大な光景を思わせる描写である。その後のところを読むと、神は空の鳥、地の獣、水に群がるすべての生き物を創り、最後に御自分のかたちにかたどって人を創られ、男と女とを創られたとある(27)。かたちにかたどってというのは、造形的なものとしてという意味ではなく、神の言葉に動き、呼応するものとして、ということである。

更に彼らを祝福して、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」と言われた。「治める」というのは、監督する、指導するという意味である。つまり、人は創られたすべてのものに対する責任を創り主にたいして負っているということである。それは生き物に対してだけでなく、資源の管理や環境保護のことにも関係する。このように考えると、「神は七日目にすべてのわざをやめて休まれた」というこの休みは、単なる休息を言っているのではないということが分かる。

「神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず・・・・」(1)とか「その安息にはいる機会が、人人になお残されている」(6)「わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか・・・・」(11)から、神の「休み」が、それで「終り」という休みでないことが分かる。例えば、農夫が作物の種を植えたら、それが芽を出してくるまでの期間がある。そのように考えると、私たちの人生、人の生き方というものは、神と喜びを共にするところに置かれている。

しかし今日のテキストにもあるように、モーセによってエジプトを脱出したイスラエルの民は、約束の地カナンに向かう旅の途上において神の怒りをかい、荒野をさまようことになった。

「その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。」(2)。「結びつける」とは、混ぜ合わせるの意で、合わされることによって力を持った別の新しいものが生み出されることを言う。しかし彼らにとって聞いたみ言葉は、力にならなかった。約束の地を目指してであっても、荒野で何もなくて、のどが乾き、腹もすく、きついばかり、ということになったら、選ばれた喜び、救い出された喜びよりも、一体何故このような苦しみを自分が味わなければならないのか、というようなことにもなる。

創世記25章の終わりに、イサクの二人の息子、エサウとヤコブのことが記されている。弟のヤコブが家で煮物を作っていた時に、兄のエサウが外から帰ってきて、「わたしは飢え疲れた。お前が作ったそれを食べさせてくれ」と頼むが、弟のヤコブは「まずわたしにあなたの長子の特権を売りなさい。」と持ち出す。それに対してエサウは、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」と口にする。弟のヤコブは、長子の特権を気にしていたものの、まさかこのようにことが進むとは思っていなかった。ところが兄のエサウは長子としての特権を、まさにこのようなかたちで扱った。しかし考えてみると、このような心は容易に人に働くのではないか。

私たちは「神の恵み」を知らされた者であることを前提としてとらえておきたい。神は七日目に休まれた。私たちも仕事を休む、礼拝を守る、ということは、神の義、神の配慮に応えることである。現実には、身体の休みが取れないとか、日曜日に働くことでなければ、仕事がないという話も聞く。又、子供は子供で、日曜日にも塾へ行くとか、稽古事に行くという流れになっている。このような状況のなかで、個人はどのように考えたらよいのか、むしろ、神によって生かされていくために、「主の日を守る」という確信を信仰者は持って欲しい。

最近、自分史を作るという話をよく見聞きする。自分の生きていることの確認?として自分史を書く。それを身内や親しい人たちが読むことで一つの役割は果たされる。しかしそこで語られていることは、本当の自分の、そしてすべてであろうか。13節に「神のみまえにはあらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。」とある。私たちは生き方の焦点をそこに置かなくてはならない。

初めに「神は・・・・休まれた」ということは、単に終わりや休息を意味しているのではないことを話した。神の「休み」は、私たちが神のもとに来ることを望んでおられ、私たちを待っておられるということを知っていただきたい。主イエスが「父の喜びがわたしに宿り、わたしの喜びがあなたにも宿るため」と言われた。その世界をめざして働く者として育つことを、私たちは求められている。私たちは来るべき日に、神のもとで相見合い、互いを喜び合う、その時が備えられていることを思い、そこに心を向けていくものでありたい。

2001年1月14日(日)主日礼拝宣教要旨

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