その道を備え

1わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、 2御言に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、 3テオピロ閣下よ、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました。 4すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります。
ルカによる福音書 1:1-4

いよいよ12月を迎えた。こうして、今年最後の、そして最初の、第一主日礼拝を共に守れることを感謝したい。商店や街の装いは、既に早くからクリスマスの訪れを待っているようである。確かにクリスマスが待たれているということを感じる。しかし、それがどんなに明るく、華(はな)やいだものであっても、私たちがクリスマスを待つ意味とは違うものがあるのを感じる。ルカは、「わたしたちの間に成就された出来事を」という言葉から、この福音書を書き始めている。

この「成就」というのは、旧約の時代から待たれていたメシヤ、救い主が来て、私たちに救の道を拓いて下さるという約束が、現実のことに成ったということである。その出来事を「最初から親しく見た人々」というのは、主イエスと共にいた弟子たちのことであるが、その出来事を目撃し、「御言に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが」と記して、「テオピロ閣下よ」と呼びかけている。

「閣下」という呼び方から、社会的に地位の高い人、恐らくローマの高官であろうと思われるが、そのテオピロ閣下に、「わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので」と、胸を張って述べ、「ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました。」と記している。(ルカは、この福音書の続篇として書いた使徒行伝の初めにもテオピロの名を記している)

続いて、「すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります」と述べている。救いの出来事は、既にルカ自身の中に起っていた。彼はギリシャ人で、医者であった。また伝道者パウロのよき協力者でもあった。ルカはその出来事を「最初から親しく見た人々」ではないけれども、自分の人生の中心になっているイエス・キリストのことを、何とかして伝えたいという熱い思いを、私たちは、この書き出しに当たるわずか8行余の文章の中に知ることが出来る。

4つの福音書には、それぞれ4人の名がついているが、特にルカの場合は、彼自身が異邦人であったこともあって、イエス・キリストによってもたらされた「福音」は、「すべての民に与えられる大きな喜び」(2:10)であるという確信に貫かれ、しかも、「異邦人」が読むことを考えて、出来るだけ理解しやすいように、心くばりがなされている。ルカは「テオピロ閣下」に献じるというかたちをとりながら、実は、その背後に「異邦人」であるギリシャ・ローマの世界と、そこに住む全ての人々に思いを向けていたように思う。

そういう意味から言うと、わたしたちも「異邦人」である。生粋(きっすい)のユダヤ人ではない。生粋のユダヤ人は、神の言葉は自分たちのものというところに立っているが、私たちは、神の言葉としての福音を、人を介して知らされ、それを担いゆく者とされている。

言って見れば、ルカと近い立場に置かれているということを、自分の信仰の歴史と共に振り返りながら、その出来事を伝えるということについて共に考えたいと思う。しかし、教えるという立場で伝えるのではなく、相手の傍(かたわ)らに立つというかたちで、神の愛と平安と力をその人自身のこととして、「これはあなたのものです」ということで伝えて行く、その方法を常に考えていくことを心がけたい。

また、そのことを互いに分かちあっていきたいと思う。特に家族や身内に教会のことや聖書のことを伝えようとすると、どのように伝えようかと、そのことばかりに気をとられて会話もそぞろになるということを聞くが、「言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださる」(ルカ12:12他)という約束もある。それに、相手の立場に立つということも、私たちに教えられていることである。主イエスにおいても、イエス御自身のこととして言えば、別に私たちに福音を伝える必要はないのだけれども、神の心と私たちのことを思って、神の子の立場を固守すべき事とは思わず(ピリピ2:6)という生き方を選ばれたのである。

20世紀から21世紀へというこの時期は、非常に脚光を浴びる、何かと人々の関心をそそる時である。TVのデジタル放送が1日から始まったとか、21世紀への展望というようなことがいろんなところで話題になっている。しかし、このような歴史にも、光と闇がある。私たちは光の当たる明るい面ばかりに目がいって、闇の部分に置かれた人たちの苦しみや悲しみに目を向けることをあまりしない。

尼ケ崎公害訴訟ーこれは車の排気ガスで健康を損なわれた、苦しんでいる尼ケ崎の人たちが国を相手に起こした訴訟であるーが、12年ぶりに、国がその責任を認めて、和解というかたちで解決したという事が1日にあった。また、その前日に、花岡事件ーこれは、第二次大戦末期の1945年6月、秋田の花岡鉱山に強制連行された中国人労働者が、過酷な労働に反抗して立ち上がり、多くの死者が出たーの遺族や関係者が、当時の使用者側の企業であった鹿島を相手に起こしていた損害賠償の訴訟が、会社がその責任を認めたことで和解したことが報道されていた。

これは当然、明るみに出されなければならない影の部分、闇の部分である。「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネ1:5)という言葉があるが、どのように文明が発達しても、国や企業の理不尽な圧力のもとで、苦しむ人、押しひしがれて、光の当たらないまま放置されている人たちがいることを覚える時、やはりこれは、本当の文明ではないという思いがする。

尼ケ崎のことでも、私たちは、被害の実態や訴訟の事実について殆ど無知である。訴訟に勝ったということで報道されたから知ったというところがある。12年の間に、車の排気ガスで当該地域の人々がどんなに苦しんだか、またそれがどんなに長い日々であったかということも、私たちには想像することが出来ない。

そのように、知識がどんなに豊かでも、あふれる程の沢山の情報の中にいても、私たちには分からないことが沢山あるということを改めて思った。しかし、このような自分たちには分からない人々の苦しみとか叫びも、主は必ず目に留めておいて下さることを思いたい。

ルカ1章の後半に、ザカリヤという祭司の家族の物語が記されているが、先程読んで頂いたのは、ザカリヤが聖霊に満たされて語った預言の言葉である。預言の預は、予報・予測の予、つまり「予め」のことではなく、語るべく「預った」言葉のことである。「こうして、神はわたしたちの父祖たちにあわれみをかけ、その聖なる契約、すなわち、父祖アブラハムにお立てになった誓いをおぼえて」とある。「父祖アブラハム」というのは、イスラエルの祖、また「信仰の父」と呼ばれた人物であるが、パウロも「律法の義」に対する「信仰の義」を語る中で、「すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、『わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした』と書いてあるとおりである。」(ローマ4:16−17a)と記している。

アブラハムのことは、福音が世界に広がっていく、成就の歴史の途上の出来事である。次に「神は・・・・父祖アブラハムにお立てになった誓いをおぼえて、わたしたちを敵の手から救い出し」(74)とある。この「敵の手」というのは、イスラエルが大国に囲まれて、常にその脅威に晒(さら)されきたという歴史的事情もあるが、次の「生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである。」(75)という言葉は、(只、敵の囲いの中にあるだけでなく)、人はみな罪の力の支配下にあるということ、そこから解放されなければならないものであるということも、示している。ザカリヤは生まれたばかりの子どもに対して、「幼な子よ」と呼びかけ、「あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう。」(76a)という祝福の言葉を贈っている。

そして、「主のみまえに先立って行き、その道を備え、罪のゆるしによる救をその民に知らせる。」というのが、その幼な子について語られた預言の言葉である。次に「これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み」とある。「日の光」とあるが、これは、神の義の光のこと、正しい者、正しくない者を照らし出す義の太陽のことである。

次に「暗黒と死の陰とに住む者を照し」(79)とあるが、これは必ずしも虐(しいた)げられた人をさしているのではない。人の苦しみに対する想像力がない、思いやりがないということは、その人自身が既に、暗黒の子というか、死の陰に住む者であることをさしている。人は義の太陽、つまり神の光に照らされることによって、本当の平和がどういうものであるかを知らされるのである。80節、「幼な子は成長し、その霊も強くなり、そしてイスラエルに現れる日まで、荒野にいた。」で終わっている。幼な子自身も、神の意志を伝える者としての備えの時を持ったということである。

いつでも私たちは、私たちの生き方は、備えの時の中に在るということである。この12月の忙(せわ)しない、正に12月は日本の古い言葉で師が走ると言われる月であるが、そのような中にあっても、私たちが生かされていることの意味、使命を考えたいと思う。「その道を備え」と題したが、このことは、それぞれの生き方にも関わってくる言葉である。

2000年12月3日(日)主日礼拝宣教要旨

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