わたしは声を出して主に呼ばわり

1わたしは声を出して主に呼ばわり、声を出して主に願い求めます。 2わたしはみ前にわが嘆きを注ぎ出し、み前に我が悩みをあらわします。 3わが霊のわがうちに消えうせようとする時も、あなたはわが道を知られます。彼らはわたしを捕えようとわたしの行く道にわなを隠しました。 4わたしは右の方に目を注いで見回したが、わたしに心をとめる者はひとりもありません。わたしには避け所がなく、わたしをかえりみる人はありません。 5主よ、わたしはあなたに呼ばわります。わたしは言います、「あなたはわが避け所、生ける者の地でわたしの受くべき分です。 6どうか、わが叫びにみこころをとめてください。わたしは、はなはだしく低くされています。わたしを責める者から助け出してください。彼らはわたしにまさって強いのです。 7わたしをひとやから出し、み名に感謝させてください。あなたが豊かにわたしをあしらわれるので、正しい人々はわたしのまわりに集まるでしょう」。
詩篇 第142篇

詩篇全体を通して感じられることは、作者が心に思うままを、ある意味で非常に率直に表現しているということである。この142篇はその文面から、作者が、迫害する者の手中にあることを思わせる。一節に「わたしは声を出して主に呼ばわり、声を出して主に願い求めます。」とある。この「声を出して」とあるところにまず衝撃を受ける。次に、「主に呼ばわり」の「呼ばわり」であるが、これは「叫ぶ」という意味である。主に向かって、声を出して叫ぶとか、声を出して願うということが、わたしたちの日々の生活の中でどれ程あるだろうか。

聖書には、注意して読むと主に向かって呼ばわる、叫ぶという言葉が度々出てくる。ということは、主に向かって呼ばわらざるを得ない、叫ばざるを得ない状況が、聖書の記者たちの周辺に、常のこととしてあったということである。しかし、今のわたしたちはそのような状況にはいないような気がする。「叫ぶ」という事態を実感しようと思ってもあまり浮かばない。まず、「叫ぶ」ということから思い起こしたのは、TVの少し古い番組になるが、「おしん」というドラマの中で、まだ幼い主人公のおしんが、家が貧しいためによそに奉公に出されることになり、小さな舟で川を下っていく時に、舟から身を乗り出すようにして、「おっかあー」「おっかあー」と大声で叫ぶ。母親は母親で「おしーん」「おしーん」と言って応え返す場面があった。

幼い彼女にとっては、お母さんの側(そば)が自分の居場所だと思っているのに、そこから離れていかなければならないという現実と、おしんの母親にしても、彼女を自分の手元において育てていきたいのにそれが叶わない。遠ざかっていく娘のために、ただ名前を叫ぶしかなかった。本当にお互いの半身が奪い取られていくような、そういう状況だったと思う。

もう一つ、聖書の中からいうと、マルコによる福音書10章にバルテマイという盲人の物乞いのことが記されている。彼は道ばたに座っていたが、回りの気配から、人の病を癒されると噂で聞いていたナザレのイエスが自分の近くを通られることを知り、大声で「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。人々は叱って黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけたとある。

彼は自分が何故こんな不幸を負わねばならないのか。「見えない」という不自由に耐えねばならないのか、自分でも答えの出せない現実の中で、健康な人には分からない苦しみとか寂しさ、諦めの感情を持っていたような気がする。

今、この時にこそ叫ばなければというようなものが、彼をつき動かしたのではないか。彼のことについては私たちはある意味で容易に想像することが出来る。しかし、自分自身のことになると、私たちはどれだけ見えていると言えるだろうか。イエスは、彼の叫びに立ち止まられ、「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれた。彼は「見えるようになることです」と応え、イエスの言葉によって彼は見えるようになり、イエスに従って行ったというのがこの物語の結末であるが、私たちはそれとは違う現実の中にいるような気がする。

朝日新聞に、きめられたテーマに関して10代の若者が、自由に自分の意見や考えを投稿するティーンズ・メールというコーナーがあって時々見るが、ここ数回「友達とは」というテーマで、先日、アメリカのオレゴン州に留学中の、15歳の男子高校生のメールが載っていた。内容を簡単に紹介すると、小学生の頃は友達と騒いでいて、自分を隠していた記憶などまったくない。が今はむしろ自分を隠している。

しかし、前のように騒ぎたい。自分の人生の意味が分からなくなった、ということである。何となく彼の気持が分かるような気がする。そして、これはまた今の日本の多くの人に共通して言えることのようにも思う。それは、比較的恵まれた環境の中にあって、自分がどう感じたかとか、どう思ったかということが、常に生きていることの中心になっているということである。しかし、そこには自分の感じ方以外には何の解決も、あるいは広がりも感じられない。

そして、メールを投稿した彼の場合でも自分自身のおかれている状況、また、自分はどのように生きていったらよいかということを、はっきりとつかんでいないことが分かる。つまり、自分の置かれている状況と・u毆)か自分がどうしていったらよいかをつかむ目標がないということである。別な言い方をすれば、この盲人が叫び求めたように、自分の現実の中で、主に向かって声を上げるとか叫び求めるということがないように思う。

2節にいくと、「わたしはみ前にわが嘆きを注ぎ出し、み前にわが悩みをあらわします。」とある。これは、何よりもまず、彼が自分の嘆きや悩み、その訴えに耳を傾けていて下さる方の存在を知っているということ、(「このような知識はあまりに不思議で、わたしには思いも及びません」139:6)そして、その方に自分に対する答の全てを委ねているということではないか。今はみ言葉を読んで祈るとか、神を求めて叫ぶということがあまりないような気がする。そして、実際にその祈りの時を持とうとすると、いろんな雑念が入ってしまうという話を聞いたことがあるが、自分のことを中心にして祈ると、どうしてもそのようになることが多いように思う。やはり、「主の祈り」を基本として、(そこでは「御名をあがめさせたまえ」ということが第一に置かれている。マタイ6:9、ルカ11:2参照)、そこに中心を置いて自分の日々の生活のことを考え、また家庭の整えられることを求めて祈ることが大切である。

先程のティーンズ・メールに関して、コメンテーターの江川さん(ジャーナリスト)が、「友達」というのは、「つくる」ものではなくて、むしろ「気づくもの」であり、それは自分自身を認めていくところから築いていく人間関係なのだということを語っていたが、人はどういうかたちで自分自身を認識していくのだろうか。先日、福岡の猪城博之先生と電話でお話をしていて、先生が「現代の特徴は、すべてが『わたし』から始まる。しかし、『わたし』と言われるのは神さまの方ですからね」と言われた言葉が、今も私の印象に強く残っている。

確かに、成長のプロセスや認識の順序から言っても、「わたし」は「わたし」からは始まらない。他から呼びかけられて、「わたし」は「わたし」になる。そして聖書は、私たちが、自分というものを、回りとの関係の中で知っていく以前に、神との関係が先にあることを語っている。人にも自分にも、認められ、評価されるようなもののない、ある意味ではこの世にいてもいなくてもいいように思われる自分にも、神は目を留めていて下さる。かけがえのない者として御心に留めていて下さる。

今、各地にVIPというキリスト者の集まりが組織され、さまざまな活動をしている。普通VIP(Very Important Person)と呼ばれるのは、世間でいう要人、重要な立場にいる人のことである。しかし、キリスト者のそれは、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)からとられたものである。どんな人であれ、そのいのちの時の中で、神の御名を崇めて生きることが求められているということを知るべきである。

3節の「わが霊のわがうちに消えうせようとする時も」の「わが霊」というのは、神から命の息を吹きかけられて生きたものとなった人間の姿(創世記2:7)を示している。しかし「わが霊」というものも、この世に在ってはたえず、この世の力に奪われ、押しやられてしまうという現実がある。そして自分はもう死人のようになっている。しかし、まさにそのような状態にあっても、「あなたはわが道を知られる」とある。これ程の恵み、これ程の平安がどこにあるだろうか。

5節にいくと「主よ、わたしはあなたに呼ばわります。わたしは言います、『あなたはわが避け所、生ける者の地でわたしの受くべき分です。』とある。主を常に自分の「避け所」として知っているということは、何と心強いことであろう。

「受くべき分」というのは、受け継ぐべく与えられた財産のことである。この世の親は何らかのかたちのものを、たとえわずかな資産にせよ、子どもたちに与えられるものがあれば与えたいと考える。しかし、ここで語られている「受くべき分」というのは、物ではなく、主御自身のことである。その昔、イスラエルの民(12部族)がヨシュアに率いられて、約束の地カナン(現在のパレスチナ)に入った折、それぞれに継ぐべき土地が与えられたのにレビ族だけには与えられなかった。それは、神御自身が彼らの受けるべき分であったということである。(ヨシュア記13:33、18:7)

「主は・・・・わたしの受くべき分」というのは、そのことになぞらえて、自分に与えられた信仰の喜び—この世にあって、自分には誇るべき何ものもないが、世界とすべてのものの主である神に仕えることを分として頂いているという—を言い表したものである。(詩16:5、73:26)。何と豊かな「分」であろう。「主の祈り」で言えば、御名をあがめる者とされていくということである。「主よ、わたしはあなたに呼ばわります」と、呼ばわれる関係に置かれるということである。

見えない目をイエスに向けて叫んだ、先程の盲人は、イエスから「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれ、「見えるようになることです」と応えた。「見えるようになること」これは素晴らしい言葉である。私たちはいろんなものを見ることが出来る。しかし、一番見えないのは自分自身のような気がする。そして、その自分自身は現実においても、ある意味で叫び求めなければ、もっとも見えにくいものと思われる。

そういう意味で私たちは、自分が何者なのか、どのように生きるべきか、この現実の中で自分自身に向き合うこと、声を出して呼ばわるほどに自分を知ること、求めることを、主御自身から求められているように思う。7節に「わたしを(原文:わたしの魂を)ひとやから出し、み名に感謝させてください。」とある。「ひとや」とは、牢獄のことである。何が私を囲んでいるのか。何が私を縛っているのか、そのことも併せて考えることが出来れば、主は、まさにそのひとやから私を出してくださることであろう。

2000年10月8日(日)主日礼拝宣教要旨

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