このところ、新聞やテレビの番組は殆どシドニーオリンピックの記事や報道で占められているが、そうした中で、「老いをどう生きるか」という特別番組が、NHK教育テレビで、18、19、20日と、インタビューのかたちで、各界で活躍している50代後半から70代の人たちのことが放映されていた。今から考えると若さの後の老いが提示されていたようで、何か面白い気がした。
その中で、詩人の谷川俊太郎氏は、「老いは外から指摘されるまで分からないし、理解しがたい」と言っておられた。また、解剖学者の養老猛司氏は、「人には生老病死ということが定まっていて、人がほぼこのコースを辿るのは自然なことである。
文明が管理社会をつくり出したために、病気や死ぬということに対して人は、とまどったり、恐れたりするが、これは自然のことであるのだから、自分には死に対する恐れは全くないし、考えもしない。考えることは、自分の研究が中断されることだ。」と、明快な口調で言っておられた。ただその中で、めったに愚痴を言わない友人の医師が、90になる患者がいつも「死にたくない、死にたくない」と叫ぶのには困ってしまう、と言ったことに対して、その患者は90という年齢を生きてこなかったのだ。その人の、もう取り返すことの出来ない年月を思って堪(こた)えた、ということを話された。明るく輝いてさえ感じられる養老氏の語調が、そこだけは、底の見えない谷底のような暗さを思わせた。先週の、「不条理のただ中で」と題した小林先生(西南学院大学神学部長)のお話の始めに、「人生には上り坂、下り坂、そして『まさか』がある」と言われたが、老いも病いも死も、人はこのまさかの思いによぎられることが多いような気がする。
9月14日の朝日新聞に、作家・作詞家の阿久 悠氏が1964年に開かれた東京オリンピックと、今のシドニーを重ねた一文を載せておられた。内容を紹介すると、エチオピアのアベベ選手が、他の選手に大差をつけてまずゴールした。その2分後に、優勝者以上の歓声に迎えられて、日本の円谷幸吉選手が国立競技場に姿を現した。(後は新聞の記事とほぼ同文)しかし、その歓声はやがて悲鳴に変わった。イギリスのヒートリーがまさに抜く勢いを示して、競技場内での死闘を挑み、残り200メートルで逆転。ヒートリーが銀、円谷が銅となった。
もし円谷がもっと早くヒートリーに抜かれ、最初から三位で入って来たなら、光り輝くメダリストの印象を与えただろうにと、人間の価値の不思議さ、残酷さに重くなった。と書いておられたが、ここに、直接競技に参加している者と観客の、意識しない大きな違いがあることを示された。円谷選手は彼なりにベストを尽くした。世界各国から選ばれた選手の中から3位に入った。しかし、2位になる寸前のところで3位になったその残念さは、観客全員が彼の上になだれ落ちたとも言える重さで、彼の心、生きる気力を押し潰しとも思われる。信仰生活もある意味でマラソンにたとえられる。
しかし、そこで問題になるのは、神に対するひたむきな誠実さ、自分とまわりに対する責任感のように思われる。そして、勝負の決定権は神にある。神はそれぞれが御国にゴール・インすることを、まさに忍耐をもって待っていて下さるのである。よく、「自分さがし」という言葉を聞く。この言葉には何か共鳴・共感を得やすいものがあるが、しかし、自分が基準になっているという点において、迷路が待ち受けているという思いがする。昨晩、福岡の猪城先生と電話でお話をしていて、先生が「現代の特徴はすべてが『わたし』から始まる。しかし、『わたし』と言われるのは、神さまの方ですからね」と語られた言葉が、強く印象に残った。
先程読んで頂いたはじめのところに、「いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。」(3a)とある。「信心」というのは、信じる心に重心を置いた言い方であるが、それは単に心のことを言っているのではなく、その心をかたちにあらわした行いや生き方を示す言葉である。「それは、御自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。」(3b)とある。この場合の「栄光」は、父なる神から頂くそれであり(1:17)、「徳」(アレテー)は力を意味する。「・・・・の栄光と徳とによって」の「によって」は、「・・・・に向かって」とも訳せる言葉である。「また、それらのもの(ご自身の栄光と徳)によって、尊く、大いなる約束がわたしたちに与えられている。」とある。
それは、11節の「わたしたちの主また救主イエス・キリストの永遠の国に入る恵み」に関係する。「永遠の国に入る恵み」とあるが、これは何か遠い先のことを言っているのではない。まだ直接手にはしていないが、約束を信じて、それを目指しているという意味で、今の生き方にそのままつながっている。それは、私たちが神に受けられているということ、神のものとして育っていくということでもある。
しかしまた同時に、私たちが信仰を頂いて生きているのはこの世、この世界である。私たちは依然として、バプテスマを受ける前と同じところで生活し、受ける前に勤めていたところに、大抵の人は勤めている。家族関係も住んでいるところも同じである。ということは、そうした周りの事柄に、私たちはいつでも簡単に引き戻されるというか、引力のように、さまざまな力が自然なかたちで、しかも強引に働く、その中に、私たちは置かれているということである。
ここに私たちの心すべき戦いがあり、明確にしなければならない大切なことがある。それは「あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている」(Tペテロ2:10)ということである。5節に「それだから、あなたがたは、力の限りをつくして」とある。「尊い大いなる約束が既に与えられているのだから、それだから主を知らされた者として、これからを生きよということである。
まず、「あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を」とある。「徳」というのは、人としてもっている賜物。善いことへと押しやる力、御自身に似せて造られたとされる(創世記1:26、27)神からの賜り物と考えてもよい。人の中にある優しさ、思いやり、あるいは善悪に対する感度といってよいものかも知れない。この後、知識、節制、忍耐、信心、兄弟愛、愛と続く。いずれにしても、これは私たちが自分の力で何かをやるということではない。この世では、自分の努力でいろんなものを獲得していくが、信仰のことは、只自分の努力でやり通せるものではない。
10節に「それだから、ますます励んであなたがたの受けた召しと選びとを確かなものにしなさい」という言葉があるが、これは、只、励めとか、また励むことで不確かなものを確かにせよといっているのではない。神から頂いた召しと選びをしっかりと受けよ、そこをはずすな、ということである。「そうすれば、決してあやまちに陥ることはない」(10)とある。こういう言葉があるということは、むしろ、あやまちに陥ることが多いということである。心したいと思う。
最後に、「こうしてわたしたちの主また救主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるからである。」(11)とある。「与えられるであろう」ではない。またこの「与えられる」という言葉と、先程の「あなたがたの信仰に徳を加え」の「加える」が原文では同じ言葉(エピコレゲオー)が用いられている。
私たちの「励み」と、「神の賜物」が意味深く関わりあっているということを、言葉の上からも知ることが出来る。神は「大いなる約束」をもって私たちを待っていて下さるのだから、私たちは心を尽くし、力の限りを尽くして、キリストの愛にしっかりと裏打ちされ人生に向かって前進すべきことを教えられる。