地上に宿っている間を

13それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。 14柔順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、 15むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。 16聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。 17あなたがたは、人をそれぞれのしわざに応じて、公平にさばくかたを、父と呼んでいるからには、地上に宿っている間を、おそれの心をもって過ごすべきである。 18あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、 19きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。
ペテロ第一の手紙 1:13-19

いつも人それぞれに事情は違うと思うが、礼拝を守るということは、馴れるまでも大変だし、馴れても大変なことである。馴れたからといって、やはり心の緊張を要することである。さて、今週も健康を支えられ、共に礼拝を守れることを感謝したい。

私ごとになるが、集会の準備をする時はテレビを見ないので、土曜日の夜は殆ど見ることはないが、今、NHK教育TVで、少年少女プロジェクト特集「今父親を考える」という連続番組があって、昨晩がその最終回だった。新聞の番組欄には、「それならどうする日本のお父さん、10代の子供と父母、30人の親子が本音で生討論」という小さな紹介文があった。しかも、夕方の6時半から11時までという、長時間の番組で、テレビのスイッチをつけたのは8時すぎだったが、それでも随分長い感じがした。

聖書では親と子の関係とか、あるべき姿がビシッと、しかも簡潔に示されている。出エジプト記20章には、モーセの十戒の第五の戒めとして、「あなたの父と母を敬え」(12a)という言葉があり、また、新約聖書のコロサイ人への手紙3章には、「子たる者よ、何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである。」という言葉と、「父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れないから」(20,21)という言葉がつながって記されている。

勿論これは、単に友だちのような父親になれということではないし、また単に経済的実力で子供に対してはいけないということである。父であるその人もまた、神の前には一人の子であるという、一歩下った謙遜さが必要だという意味である。聖書ではこのような一言で決まるのが、番組の中では生活環境も育ちも経験も違う人たちが、めいめいに発言をするためか、なかなか話が噛み合わない。というか、時間をかけているわりには議論が深まらない感じがした。中で「自分はどんな父親だと思うか」という問いに、「友だちのような父親」という回答が8割ほどあったという、別のところでとられたアンケートの報告があったが、「父親はもっと権威を持つべきだ」という発言が、子どもの立場からも、母親の立場からも出ていた。また、「何故、父親にこだわるのか」という発言もあった。

夜10時を過ぎると、高校生たちは生番組に出てはいけないというきまりがあるとかで、その前のわずか10分程であったが、彼らの語っていた言葉が印象に残った。どういう言葉かというと、「親の価値観で、いいことはいい、悪いことは悪いとはっきり言ってほしい」「親は子どもを理解することが出来ても、子どもには親を理解することが出来ないところがある」といった発言。これは「親はそれだけ年を重ねているのだから」という意味であるが、また、「親は背筋をきちんとしていてほしい」という発言もあった。これは、親自身が人生の意味や目的を明確にもってほしいということではないか。

また、「親が職場の愚痴など言ってくれても、自分たちには分からない」「親自身、人生を楽しく生きてほしい」と言っていたのが心に残った。では「楽しく生きる」というのはどういうことか。その人その人の価値観によって違うと思うが、自分の生きたいように生きることが果たして、人生を楽しく生きたということになるのか、という問題がある。やはり、自分に誇りを持てるというか、一つの目標をもって、それに向かって生きるということが、人にとっては一番価値のある行き方と言えるのではないか。

今朝の箇所は、直接的にはこの手紙を手にした、各地に「離散し、寄留している人たち」(1:1)に向けて語られた言葉であるが、同時に「国籍を天に持ち」(ピリピ3:20)、その天にある故郷(ふるさと)を望み見ながら、「旅人・寄留者(ヘブル11:13−16,Iペテロ2:11、詩39:12)」として生きる私たちそれぞれの姿を示している。

さて、「地上に宿っている間を」と題したが、この「間」というのは、人の人生、その生涯を形容して言った言葉である。若い人にはこの「間」が長く感じられるだろうし、年を重ねた人からは、「人生というのは、あっという間のことだ」と聞く。人生については、いろいろと語られるが、死ぬということは、等しく平等に定められている。私たちは、誰にも平等に与えられている、死という現実がある(訪れる)ことを思わないといけない。

福岡の猪城先生とお話をしていた時、先生が、先日教会で終末を生きるということで証しをされたことを話され、「死の後には永遠がつながっていますからね」と言われた。これは、ある意味で、人の死が死で終わらないということである。「地上に宿っている間」というのも、それと関係する。「間」がどんなに短くても、「永遠」がかかわっている以上、私たちはその「間」を「おそれの心をもって」過ごすことが大切である。

しかし、私たちは、死で全てが消滅するように錯覚しがちである。だから「生きている間に」という考えになって、自分の気持本位に振る舞うことになる。そして、そこから罪の問題が生じてくる。人は誰もこのことから離れて、気ままに生きることは出来ない。創世記4章に、アダムとエバの間に生まれた、人類最初の兄弟アベルとカインの物語が記されている。カインは土を耕す者となり、アベルは羊を養う者となるが、カインは自分の供え物が主に顧みられなかったことから大いに憤って顔を伏せた。そのカインに主は語って、「なぜあなたは憤るのですか。なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。

もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません。」と言われた。私たちは、罪が門口に待ち伏せているということを、常に意識しておかなくてはいけない。罪は力をて人を縛り、人から自由を奪うものである。しかし、私たちは、カインに語られた主の言葉のように、自分の罪を治めるというか、罪に向かい合って闘う力を主から頂いている。

私たちにその闘いが可能なのは、カインにかかわられた主の言葉が、私たちにもかかわって語られているからである。だから私たちは、「地上に宿っている間」というふうに、自分のいのちの時をつかむことが出来る。私たちは家庭の中においても、また人付き合いにおいても、自分の感情に支配されやすいし、それによって生きて意味や目的を見失いがちなものであるが、自分がこの世という、宿り(仮住まい)の間を生きている者、その旅の道程(みちのり)にある者であることを改めて思い起こしたい。

しかも、私たちは「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)と言われた主イエスに従って生きることをはっきりと示されている。これは、私たちが思いみる以上に大変なこと、有り難いことである。

2000年8月27日(日)主日礼拝宣教要旨

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