日本ではこの季節になると、「盆休み」ということで、ほぼ公に、役所も会社も商店も一斉に休みに入る。その昔(中国では6世紀中頃、日本では7世紀に入ってから)、死者の霊を死界の苦しみから救済するということで、人々の間に始まったお盆(正確には盂蘭盆と言う)は、いつの間にか、この時期に(旧暦では7月15日)、祖先の霊を迎え、供養して送るという、死者への慰霊行事として一般に定着したようである。
しかし、お盆の本来の意図は、死者の霊を慰めるというかたちをとりながら、普段、離れ離れになっている家族や身内が、年に一度共に集まって、互いに安否を確かめ合うことにあるのではないかと思われる。一般的に言って、働いている者が、その勤務先に何の気兼ねもしないでおおっぴらに休暇をとって帰省し、あるいは、その休みを利用して旅行に出かけられるのはいいことである。
今朝は、先週に引き続いてヤコブの手紙2章。宣教題は12節の「だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい」から取らせて頂いた。「自由の律法」という言葉は、1:22〜25の文脈の中にも出てくる。「そして御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。」とある。今朝の宣教のポイントは、一言で言うと、自由の律法のもとにあるものとして、それを基本として考え、生活していくということにある。自由の律法とは、イエス・キリストによって、分かりやすく伝えられた教えのことである。
パウロはガラテヤ人への手紙の中で、「キリスト・イエスにあってもっているわたしたちの自由」(2:4)と語り、「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう」(6:2)とも記している。神がモーセを通して示された「十戒」(出エジプト記20:2〜17)は、その始めから、イスラエルの民を御自身の民として迎え、護るための具体として示されたものである。しかしその戒め、律法は、いつの間にか、人の思いや解釈によってただ人を縛るもの、また人を裁くものとなっていた。命令・禁止令の数は500を越えていたと言われる。
「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」という一人の律法学者の問いに対して、イエスは、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」と言われた。それが自分の内なる主権を神に返していくことであると示された。ヤコブの手紙の今日の箇所は、当時の教会に集まっていた少数の富める人や貧しい人たちへの対し方について批判し、神の評価、基準はそれと異なることが記されている。(5)。
先週木曜の夜、テレビ愛知で「評決のとき」という、4年前にアメリカで作られた映画が放映された。一人の黒人の少女が、ならず者と言ってよい二人の白人の青年に犯され、彼女の父親はその二人を殺して、殺人犯として捕まるわけであるが、何故、彼女の父親がこのような行動をとったのかということよりも、また、気の毒なその少女のことよりも、黒人によって白人が殺されたということに、町の人々の怒りや憎しみが固まった。そして、彼の弁護を引き受けた若手の弁護士も、同じ白人のくせにということで、白人の優位性を主張するKKKという、残忍で凶暴なオカルト集団の手で、家を焼かれたり、命を狙われたりする。
最後にこの弁護士は、白人が殆どの陪審員を前にして、「皆さん、目をつぶり、心で想像し受け止めて欲しい。」と言って、事の成り行きを語り、=その少女は白人の子どもでした=と言った。瞬間、私は何故、白人の子どもと言うのか、と思ったが、しかし、そのことで陪審員たちは、黒人の父親の心情を、自分たちの事柄として受け止め、彼を無罪と評決したのである。白人、黒人のこととしてではなく、自分自身のこととして受け止めたわけであるが、人はそれぞれに感じ方も、想像力も違うわけだから、自分で考えることが全て正しいとは言えない。
見る方から見られたら、自分は公正だと思っているどんな人も、自分の中にある独断や偏見、差別意識を認めざるを得ない。ここに「自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい」(12)という言葉があるが、この自分もまた神の前に覚えられ、その方の赦しと忍耐の故に生かされているのだという自覚をもって語り、行動し、生活していくことが大切である。
この映画は、人種差別の問題に対する戦いの道程を描いたものであるが、白人と黒人といった事柄でなくても人の暮らすところでは、持てる者、持たない者といったところで、相手に対する思い上がりとか卑屈さとかいった見えない壁が作られやすい。そうした中で、神を知った者、信仰に生きる者、約束された御国の相続者とされている者として、日々を、人生を歩むことの大切さが、ここで語られている。
「しかるに、あなたがたは貧しい人をはずかしめたのである。あなたがたをしいたげ、裁判所にひきずり込むのは、富んでいる者たちではないか。あなたがたに対して唱えられた尊い御名を汚すのは、実に彼らではないか」(7、8)という言葉があるが、搾取が当然のように行われ、また福祉の殆どがなかった時代、護られることもなく、不正な取り扱いを受ける人たちが少なからずいたということ、また富にまかせた生活をする者たちがいたということである。ここでも、私たちは神によって創られた者、選ばれた者、さばかるべき者として、私たちの人生があるということを心に留めたい。
水曜日の集会での詩篇の学びも、今週いよいよ139篇に入る。その始のところに「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。・・・・」という言葉がある。
私たちの、否この私のすべてを知られる方として、主なる神がおられるということ、そのことを知らされているということに、非常な畏れと慰めを覚える。それはまた、この上ない祝福への導きであることを示される。私たちは、このことを思って自らを戒め、主に生きる者としての意志を鮮明にして、これからの人生を歩んでいくことが大切である。