私たちの教会は、昨日(15日)で丁度、創立48周年を迎えたことになる。この間にどんなことがあったか、歴史と言われるものが総じてそうであるように、私たちはその全てを知る由も把握する由もないが、主はその全てを御存知である。教会を船にたとえれば、私たちはこの船を、神の歴史の流れの中にそれぞれが力を併せて浮かせ、その運航を進めている。そこには、私たちの目に見えない働きが沢山ある。
例えば、礼拝や集会を守るために、どの時代に誰がどの椅子に座ったか、その椅子に座った一人一人の歴史が、この「名古屋丸」の今までの、そしてこれからの運航に深く結びついている。私たちはみんな、主の前には、等しく大切な存在である。誰との比較もいらない。それぞれに応じて主は顧みてくださるのである。
先週は長久手伝道所に行っていたので御報告が遅れたが、4日から6日まで、北海道の登別で開かれたバプテスト全国教役者研修会と総会に参加した。研修のテーマは「高齢者に対する教会の役割」(正確には「老年期の活性化は教会から」―21世紀を迎える教会の課題―)ということで、札幌で長年、医療事業に携わってこられた上泉さんという方の講演が、初日と2日目にかけてあった。全体の印象と結論を一言で言うと、社会全体が既に高齢化を迎えているのに高齢者自身に期待されるものはない。
しかし、どんなに年を重ねた人にも、神様から期待され託された働きがある。それを語っていくのが教会だ、ということだった。そういう意味でキリスト者というのは、人の目には見えないが神との関係で示される役割というものがそれぞれにあるということを、改めて嬉しく思った。
2日目の午後は希望者で、平取というところにあるアイヌの聖地と資料館を訪ね、夜は横山むつみさんというアイヌの語り部からお話を聞いた。彼女は、「アイヌ神謡集」(岩波文庫)の訳者、知里幸恵さんの姪ごさんで、身内にはキリスト者が多いと伺ったが、明治の頃、アイヌの土地に開拓民として入り込んできた和人たちがどんなに身勝手なひどいことをしたかという話が、私の心に強く残った。
この度の北海道行きの大きな原動力となったのは、旭川におられる名古屋教会出身の上田牧師(旭川東光教会)、絹枝夫人と三人の子どもたち、また以前、この教会でバプテスマを受けられた看護婦の沢口純子さんとお会いすることだった。
上田牧師は、連盟からの経済的支援期間が終わったこともあって、一昨年九州バプテスト神学校を卒業されて、執事から教育担当牧師として就任された渡辺さんという方と、同じ薬品会社の夜警の仕事を交替でしながら教会の働きを担っておられる。長男の眞実(まさみ)君は高1、次男の良嗣(よしのり)君は中3、長女のみのりちゃんは小6となった。それぞれ元気に成長しておられる。
先程読んで頂いた詩篇19は、その始めから主の創造のわざとしての天体の動きを、美しく、また力強く描いていて、他にその類を見ない。これを読むだけで、非常に元気の出る思いがする。これは、この詩を書いた著者自身が、神の創造のみわざに感動し、喜んでいるということで、それが、このような美しい動きのある文章をつくり上げたのだと思う。
ここを読むと元気を覚えるが、私たちそれぞれの現実の生活は、疲れていることの方が多いのではないか。しかし$ここではそれに対しても、非常にダイナミックに、「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。」と記されている。
心と眼の関係を言うと、これは単に肉体の眼ではなくて、事態を見る眼というか、その眼を明らかにするということである。「眼を明らかにする」というのは「眼を照らす」(直訳)こと、「目に光を与える」(新共同訳)ことである。
詩篇13:3にも「わが神、主よ、みそなわして、わたしに答え、私の目を明らかにしてください。さもないと、わたしは死の眠りに陥り、…」という言葉があるが、「疲れ」はすぐ眼に現れる。主イエスも、「あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。(ルカ11:34−36)と語っておられる。
次に「主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、…」(9)とある。原文には「道」という言葉がなく、只「主への恐れは清く、いつまでも続く」となっている。「主を恐れる道は」としたのは、「主を恐れる」というそのことが人生の基本であり、それが「道」をつくっていくということを表すためと思われる。「これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い」(10)とあるが、「慕わしく」とか「甘い」という表現は神の言葉が著者によって、どれ程高価で得難いものであるかということをよく表している。しかも彼は、既にそのことを味わい知っている。
ここから、主イエスの語られた次のたとえ(ルカ14:16−24)を思い出した。「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。ところがみんな一様に断りはじめた。….」最初の人は「土地を買ったので見に行かなければならない」と言い、次の人は、「五対の牛を買ったので、それを調べに行くところです」と言い、もう一人は、「妻をめとったので行けない」ということだった。ここではそれぞれもっともな理由があるが、現実には、病気にかかっているとか、家庭内に不幸があるとか、疲れ果てているといったことが招きを断る理由としてあげられる。
しかし、この場合の晩餐会というのは、むしろ次元の異なる神の国での食卓のことである。私たちは、これらのことから、この世に在って神のことを知る道や門が既に開かれていることを思わなくてはいけない。しかもその次に「だれが自分のあやまちを知ることができましょうか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください!」(12)とある。自分は罪を犯していない。自分は正しいと思っているどんな人にも、自分では気づかないで犯す罪があることを、教え示されるということである。そして、最後に「どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように」(14)とある。
どのような時も、私たちは決して一人ではない。必ずこの私に、目をとめ、力をもって御支配下さる方がいるということを忘れないようにしたい。信仰をもっているから常に守られているとか、すべてが豊かで快適ということはない。むしろ、いろんな事柄に閉じ込められて、身動きができないと思えるような事態におかれても、神の備えとか導きは必ずあるということである。
パウロは、Uコリント4:8に、「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない」と記している。14節の「どうか、わたしたちの口の言葉と心の思いがあなたの前に喜ばれますように」というのは、主なるお方が、それだけ身近かにいて下さる、あなたのことをあなた以上に分かって下さっているということである。
先々週の土曜日の朝、TVで、歌手の森 進一氏が対談の後(彼はアフリカかどこかで診療所や学校を建てたり、地雷撤去の運動に参加していると聞いたが)、司会者から何かひとつ書いて欲しいと頼まれて、色紙に「人生は習慣の織物である」と書いたそうである。考えてみると、習慣によって人生が織られて行くという言葉も分かる気がする。自分が自分流に何げなく過ごしている時間も人生の織り糸の一つになっているのである。自分の習慣になっているものが何であるかを思い返して見たいと思う。
一人の姉妹のことであるが、彼女は夜主人の帰りをテレビを見ながら待っていた。どんな番組でも引き込むものをもっている。しかし、ある時から自分の読みたいものを読む、したいことをすることとしたら、随分夜の時間帯の意味が変わってきたということである。私たちが、気付こうと気付くまいと、良いことにしろ、悪いことにしろ、その習慣は、自分の人生を形作っているもののひとつであるということを思って、今一度チェックをしてみよう。
聖書の中に、「信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし、愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人生をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」(エペソ3:17−19 パウロの祈り)とある!
私たちには常に豊かな恵みの門が開かれていることを再度覚えたい。この詩篇の作者のように、喜びと力に与かって、心から信仰の歌を歌う者となっていきたい。