ある家令のこと

1イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。 2そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。 3この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。 4そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。 5それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。 6『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、50樽と書き変えなさい』。 7次に、もう一人に、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。 8ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。 9またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。
ルカによる福音書 16:1-9(-13)

今朝の礼拝は、諸事情で例年より一週間後になったが、先に召された信仰の友やその家族の方たちを、主のみ前で共に覚える召天者記念礼拝として守ることになっている。

ところで、聖書の箇所をどこにしようかと相当に迷ったが、結局、この後、教会学校で学ぶことにもなっているこの箇所にした。それは、この世での私たちの生き方が、神の世界の事柄と決して離れてはあり得ないということからである。ただ、ここは、聖書の中でも最もむつかしいと言われる箇所の一つである。始めてという方も、時間の都合のつく方は、是非クラスでの学びにも参加して頂きたい。

話は少し変わるが、昨年11月に亡くなられた梶田繁子さんの姪で、広島に住んでおられる谷本さんとのお話の中で、「主人が仕事で猿の檻を造ることになり、そのことで京大の教授のところに何度か尋ねたが、その折、『猿は人間の祖先の姿だ』と、言われた」とのことである。児童文学の作家でもある彼女は、まだバプテスマは受けておられないが、聖書を読み、教会に行かれることもあって、その日の朝は、創造論と進化論で時間が過ぎたとのことであった。世の中には分からないことが多いのに、それなりの人が何故断定的なものの言い方をされるのだろうとも言っておられたが、大体この種の研究というのは、まず未知のものに対して仮説を立て、それを実証していくというかたちをとる。

しかし、神が万物の創造主であるという信仰の知識と確信は、聖書と、主イエスが約束された、一人一人に働く聖霊によるのである。それは、例えば、星の光が何億光年という時空を突き抜けて、私たちの目で見えるものとなるように、極めて遠大な事柄であり、私たちがそれを知っていくためには、まず、聖書の創造論の中に自分を置いていくことが先決である。人の目では捉えることの出来ないミクロの世界のことであっても、創造者によって造られた感覚なるものは、それをキャッチすることが出来るのである。

さて、今朝の宣教題を「ある家令のこと」とした。新改訳、新共同訳では「管理人」となっている。「家令」よりも「管理人」とした方が分かりやすいが、聖書の書かれた時代のことを思うと、あまりにも一般的になった「管理人」よりも、やはり気持は「家令」に落ち着く。ちなみに「家令」と訳された原語のオイコノモス(英語のエコノミー)はオイコス(家・王家・神殿等)に仕える会計係、管理者を意味する。

当時のパレスチナには、いわゆる不在地主が多くいて、有能な家令が、主人の財産管理を任されていた。しかし、有能であることと、誠実であることは必ずしも一致しないもので、この家令は、主人から託されていたものを、自分のもののように使っていた。それが主人の知るところとなり、解雇されることになった。家令は残されたわずかの時を使って、自分の先行きのことを必死で考え、今なら可能な一つの手を思いついた。何と思い切ったことをと私たちは考えるが、主人はこの不正な家令の、利口なやり方をほめたとある。

主人が自分に対して不正を働き、莫大な損害を与えた家令の行為をほめるということは、どう考えてもおかしいから、これは借り手に主人に納めるべき分は納めさせて、利息や自分の取り分をもらわず、その分だけ相手に恩を売って、将来に備えたということではないか。いずれにせよ、主イエスは「この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である」と言われた。更に「またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富がなくなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。」と言われる。

内容を分かりにくくしているのは、「不正の富を用いてでも」という言葉と、「永遠のすまい」という言葉である。「永遠のすまい」という言葉をカギとするならば、この場合の「不正の富」という言葉は、家令が主人の財産を自分のもののように浪費していた、というところから始まる。譬えそのものが示している内容をストレートに言えば、「主人」とは、「神」のことである。他の譬えにも、主人が自分の財産を僕たちにまかせて旅に出るというのがある。

主人が旅に出るということは、当然のことであるが、また戻って来て、自分の留守中の報告を僕たちに求められるということである。聖書に即して言えば、私たち自身も、私の全ての時も、私が労して得た全てのものも、主であるお方から託されたものであるということである。しかし、私たちは、どれ程にそのことを心に留めているだろうか。少なくとも、頭で理解する程に生活化していないのではないか。私たちは神の愛に対して、神の富に対して、どれ程の気持や、時間や、努力を払っているだろうか。そして、神との交わりを喜んでいるだろうか。

9節の「不正の富」というのは、不正の手段によって得た富というよりも、この世の富のことである。人はその富に執着しやすく、また支配されやすい。しかし、それから少しでも自由になることで、既に用意されている「永遠のすまい」のことが見えるということである。

詩篇16篇に「あなたはいのちの道をわたしに示される」(11)とある。このことを伝えるのが教会の働きである。私たちは、亡くなられた方たちのことを思う時、たとえ長い患いの中で召された方であっても、思い出すのはいつも元気な時のお姿である。私たちの元気な時というのはいつか。私たちが存在している「今」の時である。

この「今」の時を、神の前に思い残しのないように、潔(いさぎよ)い生き方を努めたい。テサロニケ人への手紙の中に、主の日は突如として来る。しかし、あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはない、とある(5:2ー4)。私たちには、いつも光の子とされていることへの自覚が求められている。

2000年6月18日(日)教会創立48周年記念 主日礼拝宣教要旨

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