わたしにつまずかない者は、さいわいである

18ヨハネの弟子たちは、これらのことを全部彼に報告した。するとヨハネは弟子の中からふたりの者を呼んで、 19主のもとに送り、「「きたるべきかた」はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしようか」と尋ねさせた。 20そこで、この人たちがイエスのもとにきて言った、「わたしたちはバプテスマのヨハネからの使ですが、『きたるべきかた』はあなたなのですか、それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか、とヨハネが尋ねています」。 21そのとき、イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが、 22答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。 23わたしにつまずかない者は、さいわいである」。
ルカによる福音書 7:18-23

この5月の大型連休に、教会では3、4、5と3日間、午後から10人前後の方たちが集まって、今まで手つかずになっていた部屋の片付けや、庭の草取りが行われた。このような連休の過ごし方があることを、私は改めて思った。翌6日の土曜日は、結婚式があり、かなりの数の人が出席しておられたが、その多くは若い人たちであった。新婦の友人の方だったと思うが、式の後の感想として、「まだ結婚はしたくないけれど、結婚式がしたい」と言っておられたのを聞いて、私はとても面白いと思った。こういう発想というか表現は、今までに聞いたことがない。しかし、考えて見ると結婚式というのは、人生の中で誰もが主役になる、みんなの注目を集める数少ない機会の一つと言える。そういう意味では、人生の変化を求めて主役になりたい気持は、常に誰にでもあると思う。

このところ少年による犯罪が、しかも今までに例を見ないかたちで、重なるように起こっている。彼らが起こした一連の事件は、少年だからといって、決して赦されることではないと思うが、背景を考えると、親を含めて、世の大人たちが、その人自身よりも、その人のもつ能力といったものに、価値を置いてきたということではないか。只、自分の子が元気であればいい、学校の成績がよければいい、他の人たちとくらべて遜色がなければそれでいいという、そんなところで子どもを見ていたのではないか。その子どもが心の中で、何をどう感じ思っているかというようなことは、余程、プラスになることでない限り、親も回りの大人たちもまるで関心がない。今、子どもたちは、自分が人並み以上かどうかで、親の愛が左右されるように感じている。親自身もまた、そういうかたちでしか自分の愛を子どもに表現出来ないというところにいる。そして、その欲求が充たされないまま、誰も自分に注意を払ってくれない、関心を示してくれないというところに留まっていると、やはり、欲求不満が高じてくる。

しかし、私たちが個人として大事にふまえなければならないことは、イエス・キリストにおいて開かれた、父なる神との関係ということである。私たち一人ひとりは、この主なる方の前に、掛け替えのない者として覚えられ、求められているという意味において私たちは、それぞれ主役なのである。そういう関係が既に備えられているということである。これは、私たちが一番に思うべきことである。そしてまた、私たちに最も欠けているのはそのことではないか。

私たちは、私の心の中で、そして、生活の中で、どれだけこのことを体験しているか。私たちは旧約の時代とは違うが、どのような状況の中にあっても、神と私という大きな関係の中に生きた信仰の先達たちのことを思いたい。「わたしはあなたにむかって目をあげます」(詩篇123:1)「われらの助けは天地を造られた主のみ名にある」(同124:8)等々。そこがはっきりしないと、信仰生活も教会生活も、つまらない、只負担でしかないものになってしまう。私たちは、私たちを創られた方の前に、果たすべき役割をそれぞれに頂いている。どんなに目立たない人であっても、その人にしか出来ない、主から託され、命じられ、期待されている仕事があるし、主は御自身の存在の全,u毆)てをかけて、私たち一人ひとりをお心に留め、愛して下さっている。愛するということは、自分の全部をかけて、その人を、その人として大切に考えることである。

信仰とは、「持つもの」ではなく、私たちに先立って、一人ひとりに臨んで下さる主に心を開くこと、そのいのちに与かって生きることである。その信仰において、家族を大切にすること、その信仰において自分を低くすること、その信仰において自分を無にすること、それが、主に従って生きるということである。私たちは主からの信仰において、自己中心の縛りから自由にされていく恵みを頂いている。その信仰において、私たちは、自分が自分をどう感じるか、人が自分をどう見るかという自意識の網から自由にされていく。実際、綱の外は広いのに、私たちは、自分とか社会という目に見えない網にからまれて、自由を奪われることがよくある。しかし、私たちは信仰において、み言葉において、いつでも自由にされていく恵みと約束を頂いている。

今朝の箇所は、「ヨハネの弟子たちは」で始まっているが、このヨハネというのは、「バプテスマのヨハネ」と呼ばれている人のことである。彼は主イエスとほぼ同じ頃、ヨダの荒野に現れ、人々に神の国の到来を告げると共に、審きに備えての罪の悔い改めを激しく迫り、そのしるしとしてのバプテスマを授けていた。彼は、当時ユダヤを治めていたヘロデ王の乱れた私生活を名指しで批判したことから捕らわれの身となり、やがて処刑されることになるが、今日のところは、獄中で主イエスの噂を伝え聞いたヨハネが、自分の弟子の中の二人を主のもとに遣わして、「「きたるべきかた」はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と尋ねさせるところである。「きたるべきかた」というのは、イスラエルの人々が長い間待ち望んでいたメシヤ、救主のことである。そして、彼が抱いていた救主のイメージは、社会の不正を暴き、正していく、強力なリーダーシップを持ったメシヤの姿だった。

しかし、彼の耳に入ってくる主イエスの働きは、彼が想像していたようなものではなかった。只、この時の彼の気持の中には、何とかして確信を得たいという気持があったことは、この彼の問いからも伺える。しかし、主はヨハネのその問いに対して、ただ「行って、あなたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。・・・・。」と告げられた。ここで語られていることは、メシヤ、救主が現れた時のしるしとして、旧約において既に預言されていたことである。(イザヤ35:5−6、他)

更に、それに加えて、「わたしにつまずかない者はさいわいである」と語られた。原文は、「実にさいわいだ。私につまずかない者は」である。「つまずく」という言葉は、信ずべき方を信じないで、自分から見切りをつけること。主イエスのもとから去っていくことを意味している。福音書の中には、主イエスによって癒された人たちのことが多く記されている。恐らく、このようなことを通して、その噂は、人々の口から口へと語り伝えられたに違いない。しかし、果たしてこれが救いなのか、一つの問題は解決しても、現実に人が抱え持つさまざまな問題に対しては、何の解決にもならないではないか。弟子に託したヨハネの問いに関連するが、状況こそ違っても、自分の現実の生活に縛られて、そこからしか、ものが見えなくなってしまうという点では、私たちもまた、この時のヨハネとどこか共通しているように思われる。

今の私に差し迫っているのは、自分の健康の問題であり、家族のことであり、仕事のことである。というふうに私たちはいつも考える。こういう現実の状況に対して、もし信仰が何の力ももっていないとすれば、私たちは他の何かに期待しながら、只ずるずると日を送っていることになる。そして、結局何もつかめないまま終わってしまうことになる。

今朝は読まなかったが、24節からのところに、ヨハネの弟子たちが去った後、主はそこに集まった人たちに対して、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。では、何を見に出てきたのか。・・・・預言者か。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。」と、ヨハネのことについて語られ、続けて、「あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。

しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。」と言われた。「神の国」とは、字義的には「神の王国」(バシレイア トウ セウー)を指し、神を至上の主とする世界を意味する。その支配は、イエス・キリストにおいてこの世に臨み、この世に重なって広がる。

私たちは、イエス・キリストを知った者として、イエス・キリストにおいて父なる神を知らされた者として、そのいのちを頂き交わりに与かっているという喜びで、日々充たされていく者でありたい。また、神のいのちにつながれる者として、改めて自分の人生のことを考えたいと思う。

2000年5月14日(日)主日礼拝宣教要旨

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