三本の十字架

39十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。 40もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。 41お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。 42そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。 43イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
ルカによる福音書 23:39-43

十字架にかかられたイエス・キリストのお姿は、それを見た殆どの人の記憶に残るものであるが、その左右両横の十字架にかかった二人の人のことは、絵画においてもあまり取り上げられることなく、印象としても薄い。この二人が私たちの印象に残るのは、まさに聖書において、そこに記されている記事を読むことにおいてではないか。

教会は今日から受難週に入る。金曜日にイエス・キリストが十字架にかかられた受難日を迎え、次週23日は、主の御復活を記念するイースター礼拝を守り、喜びを共にする。今朝の箇所は、9章から始まる主イエスの十字架への道行きを記した最後の場面である。「されこううべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた」(33)とある。

十字架の刑はどのように行われたのか。その縦柱は地上3b程の頑丈な木柱で、予め刑場に立てられていたから、死刑囚が運ぶのはその横木だけである。釘打ちと縄で縛る方法があったようであるが、聖書の記事からすると、釘打ちの方法がとられた。

木柱の中程に腰掛と呼ばれる木片がつき出ていて、それが受刑者の体重を支えるようになっていた。死が十字架刑の苦痛を終わらせるまでには、まる一日かかることもあったようである。その間、麻酔を含んだぶどう酒が何度か与えられるようになっていた。両手両足を釘付けにされたままの痛みというのは、私たちの想像を絶するものがある。そして、39節では、まさに十字架の上での会話になるが、犯罪人の一人が、「「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。」とある。

ここは、主の十字架の場面であるが、十字架を取り巻く人々の姿が、実に見事に描き出されている。十字架の下で、イエスの衣類を分けようと、くじ引きをしている兵卒たち、十字架を取り巻くようにして立って見ている民衆、役人たちもあざ笑って言った、とある。「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。彼らに共通しているのは「自分自身を救え」ということである。

これは、表現は異なるが、本人にとって、また、周りの者にとっても、得になることでなければ何の意味があるか、ということである。これはまた、エデンの園で、見るからに美しく、美味しそうなリンゴの木を前にして、へびが女に「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」(創世記3章)と言って、彼女を誘惑するところと共通したものがある。

自分に分かる次元(範囲)でことを判断していくならば、信仰は常に問いと疑いの波に弄(もてあそ)ばれる苦しいものになる。また、光りも失われ、前に進むことも出来なくなる。イエス・キリスト御自身にとっては、まさに「その汗が血のしたたりのように地に落ちた」(ルカ22:44)と形容される程の祈りを通してであるが、十字架にかかることが神の御旨としての必然であった。反対側にいたもう一人の犯罪人は、「お互は自分のやったことのむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかしこの方は何も悪いことをしたのではない」と言った。その前に、「お前は同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。」という言葉がある。悪口を言った犯罪人が、キリストという言葉を知っていたということは、彼がユダヤ人であること、また、死刑という極刑(十字架刑:ローマが奴隷や外国人の処刑に用いた)であることを考えると、普通の犯罪人というより、ローマからの解放を求めて戦っていた「熱心党」の者たちとも思われる。

だとすると、十字架刑そのものも、彼らからすればローマの治安のもとに生じている不合理と言える。彼をいましめたもう一人の「犯罪人」は、たとえ不合理であっても、それはそれとして、自分の自負心にかけて刑を受けとめていたと思われるが、彼は、イエスと隣り合わせたことによって、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と願い出たわけである。わたしたちは、彼らがどんな人生を生きてきた人たちなのか知ることは出来ない。ただ、丘の上に十字架刑という極刑のために立てられた三本の十字架から、神の御心に従った御子イエス・キリスト、そして、自分を中心とした思いと考えから、「見えるかたちで力を示せ、自分を救い、またわれわれを救ってみよ」とイエスをののしり、嘲笑し続けた人と、彼をたしなめ、「神を恐れないのか」と言った人との、三様のドラマを感じる。

私の師の一人の猪城博之先生は、戦後の日本をどうとらえるかを、今も深く問うておられる方であるが、先生は、それを精神的空白という言葉で表現された。つまり、一人一人を内から支える力となるものが何もないということである。その現れの一つが、人を軽くみる、大切にしないことと言われた。また、大人も子どもも老人も含めて、私たちが幼稚になったということ、私たちは一日も早く、その幼稚さを脱して大人にならなければならない、とも書いておられる。

まさに人の心というのは、ほっておくといつまでも方向が定まらないまま、浮遊するというか、当所(あてど)ない動きをする。金曜夜の10時台に「ここが変だよ日本人」というTV番組がある。その時間帯というのはなかなか見れないが、先週は遅い夕食を取りながら部分的に見た。出演者は、いわゆる暴走族ともう一つの若者のグループ(自分のしたいことをするということで集まっている、という自己紹介はあったが、詳細は不明)と、彼らに対する20人程の外国の若者たちである。カナダ・アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・フィリピン・ミャンマー・タイ・韓国等々、日本には実にいろんな国の人が滞在しているという印象をまず受けたが、それぞれ何らかのかたちで日本に滞在し、学んでいる若者たちである。私の目に止まったのは、次のような彼らの言葉のやりとりである。

(外)「あなたたちは夜中になぜ、人に迷惑をかけるような大きな音を立てて走るのか」(暴)「楽しいから」、(外)「楽しいなら、なぜ20歳前にやめるのか。ずっと続けたらいいではないか。なぜ続けられないようなことをしているのか」等々。見掛けだけは大人のような少年たちの発する言葉を聞きながら、はっきり言って、彼らには生活がないという感じがした。日本の今の姿を垣間見る思いと、外国の若者たちの発言には、人としてのモラルというより自然な感覚として、国籍を越えたものを感じた。Tテモテ2:4−5に「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。神は唯一であり、神と人との仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」とある。

私たちは、イエス・キリストの十字架の意味を、ただひたすら神の御心に従って生きられ、私たちのために、神につながる道となって下さったイエス・キリストのことを改めて心に思いたい。最後にもう一カ所、聖書を読ませて頂く。

「しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである」(Uコリント5:18−19)

2000年4月16日(日)主日礼拝宣教要旨

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