昨日の土曜日、堀場さんと小塚さんという方の結婚式が行われた。そこここに喜びの花が活けられている。いずれまた、礼拝に出席されると思うが、宜しくお交わりをお願いしたい。私は教会での挙式を希望して訪ねて下さる方をとても嬉しく思う。全ての人が教会での結婚式を希望されるわけではないし、また本人がそう願っても相手の家族の気持が向かなくて、挙式に至らないという場合もある。そうした中で、勿論礼拝に出られたり、準備の時を持った上でのことであるが、教会での挙式を喜んで帰られる方たちに接するのはとても嬉しいことである。結婚後もお便りを下さったり、教会の特別集会や結婚記念日に近い礼拝に出席されたり、また子どもが生まれると礼拝の中で祝福式も行われる。
今回は新郎が食品関係の会社に勤めておられるということだったので、メッセージの中で、食品には賞味期限というのがあって、袋や容器に日付が明記されている。愛にはそのような賞味期限というようなものはないが、やはり年月がたつと鮮度が落ちてくるというか、それ以前に、鮮度を保っていく努力をお互いにないがしろにしてしまうという現実があるということをお話した。神さまのことも本当には何も分からないまま何か身内のような感覚になってしまって、畏れとか、あるいはもっと知りたいといった努力をなくすものであることを改めて思った。確かに神さまは、人間同志の関係と違って、いつも私たちに対して、新鮮に心を向けて下さっている。また、私たち一人ひとりに対して、いつも立ち返ること、ご自身との交わりに生きることを望んでいて下さる。しかし、人は依然としてそうでなくなるという歴史を繰り返している。この分厚い一冊の聖書の中でも、人が神さまをないがしろにしたり、忘れたりする歴史は、ずっと繰り返し続いている。そして、そうした歴史の中に私たちは生きているのである。
先程読んで頂いたハガイ書は、礼拝のテキストとしてはあまり取り上げられることはないが、CSで学ぶように「聖書教育」のカリキュラムに組まれているので、今朝はここから語らせて頂く。ハガイ書は、旧約聖書の中でわずか2章という短い箇所であるが、書かれている内容は、言葉を受ける側にとっては、非常にきついと感じさせるものがある。歴史的な背景としては、バビロニヤに破れ、バビロン捕囚と呼ばれる強制連行の辱めを受けたイスラエルの民が、バビロニヤに代わって、新しく台頭してきたペルシャのクロス王の計らいで、50年ぶりに帰還を許されてしばらくたったBC500年頃のことである。
帰還はいくつかの集団に分かれて行われたが、2,000キロに及ぶ道程は、危険を伴う大変なものであった。旅の途中、彼らを力づけ支えたのは、国の再興と神殿の再建ということであった。しかし、帰ってみるとエルサレムの町は荒れたままの状態で、工事に取り掛かったものの、彼らが再び力を持つことを恐れた回りの人たちの反対や妨害、経済的事情や気候の不順による不作等で、神殿の再建は基礎工事のまま16年が経過した。聖書には、人々はまず自分・u毆)の家を建て始めたように記されている。これは、回りの状況もあって、最初に抱いていた気持が萎えたというか、横に逸れたということであろう。
しかし年老いた者、病人や小さな子どももいたことを思うと、彼らがまず自分たちの生活や暮らしを考えたということは、自然なことである。ところが、預言者ハガイの言葉は、そのような人々の生き方に対して、真正面からぶつかってくる。これは、一言で言えば「まず」のこととして、心を置くべきところに心を置くということ、そこから、本当の意味での神の民としての自由な生き方が、自分からの切れと脱出が始まることを伝えている。「それで今、万軍の主はこう言われる、あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい。あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。」(5、6)人々の生活はそんなに豊かなものではなかったと思うが、ここで語られていることは、現実の貧しさということよりも、むしろ物の豊かさの中での飢えであり、貧しさということである。
真の神との関係のないところ、希薄になったところから来る貧しさのことである。物の貧しさ以前に、心の貧しさというか、関係の貧しさというものがある。私たちの生活というのは、何かはっきりとした意志と目的、方向性をもったところで形づくられていくものである。
ここと関連する箇所として、マタイ6:33に「まず、神の国と神の義とを求めなさい」という主イエスのお言葉がある。私たちの現実の生活というのは、人間関係も含め、すべてのことが、順序正しく、自分の出番を待って一列に並んでいるという状況ではない。むしろ、毎日の生活は、それぞれに優先権を主張するものやことに取り巻かれている。何がまずのことなのか分からないまま、立ち止まることも出来ずに、只目先のものごとを処理することに追われながら、気ぜわしく日を過ごしているのが私たちである。「まず、神の国と神の義とを求めなさい」ということも、この世的に言えば「今は待ってください」というような状態が起きる。しかし、私たちは、時間が出来たらと思う時間も本当には出来ないし、時間が出来た時にはしたいと思っていたことも出来なくなるという現実を抱えている。余裕が出来たらということは、むしろ、余裕のない時にしていかなくてはいけないことの方が多い。
ハガイ書でも、マタイ福音書でも「まず」を語るのは、まず第一としていくことにおいてしか、私たちに得ることの出来ないものがあるということ、まずを第一にすることで、それぞれが、神との関係において得ていくものがあることを、どうしても掴み取って欲しいということから、このようなことが聖書に記され、私たちの前に置かれているように思う。
最近、ゴスペル・ミュージックに関心や興味を持つ人たちが多くなった。これはもともと19世紀の後半、アメリカの黒人の間で生まれた讃美歌である。永々と続く苦難と労働の中で、只ひたすらに、神の国とその支配を待ち望みながら、歌い継がれてきた信仰の希望の歌である。これに心引かれる人が多いのは、歌詞や音律の中に、癒しと希望と元気を与えるものがそこにあるからであろう。
今の時代は、心が虚しくなった時、疲れた時に、心を麻痺させるようなかたちで満たすものがあまりにも多い。だから、神が現代人から遠くなったし、神が現代から遠くなっているということは、人々の心にうるおいというか、自分で感じる平安とか、生きていることの確かさというものがなくなってきたということである。今、旧約に心を傾けてみると、神のことをないがしろにして、まず自分の心が満たされることとか、自分が納得することだけを求めていく時に、そこは決してオアシスではなく、索漠としたものになってしまうということをここは言っている。
11節に「また、わたしは地にも、山にも、穀物にも、新しい酒にも、油にも、地に生じるものにも、人間にも、家畜にも、手で作るすべての作物にも、ひでりを呼び寄せた。」とある。これは、人間が中心に立つところには、さまざまな事柄に対して、日照りや乾きが起るということである。
聖書には、万軍の主がそのようにされた、とある。何故、主がそのようにされたのかという疑問は出るが、しかし、もしこのような現実や事態を表現しようとすれば、神が人を創られた時に、他の創られたすべてのものを治めるようにと、人に委ねられたことをないがしろにしているというところから出てくるように思われる。
神が人に与えられる平安とか力は、一人一人が受けることの出来るものなのだから、私たちは、詩篇の著者が、与えられている主のおきて、あかし、さとし、戒め、さばきに対して「これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また密よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い」(19:10)と表現しているような、癒しと力を受けて、更にその癒しと力を、他の人に伝えていけるような自分自身の形成を目指していってほしいと思う。