宣教題を「主の言葉を聞くことのききん」としたが、私たちはこの「ききん」という言葉から何を想像するだろうか。「ききん」の原語、ラーアブは飢え、飢餓、欠乏の意。いのちを育むものがなくなること、まさに、求めても得られないという、そういう事態のことである。そして、やがて臨むといわれるそのききんは、パンや水のそれではなく、主の言葉を聞くことのききんである、と語られている。
アモスが預言者として立ったのは、紀元前760年前後のことである。彼はベツレヘムから南に9キロ程離れたテコアの村で羊を飼っていた。アモスの預言は、ほとんど分裂後の北イスラエルに向けられている。一章の始めに、当時、南ユダと北イスラエルを治めていた二人の王(ウジヤとヤラベアム)の名が記されているが、彼らが在位した約40年は、周辺の大国からの圧力もなく、平和と繁栄の時代であった。特に北イスラエルは、領土を拡げるなど(列王下14:25)、経済的、物的には豊かであったが、その繁栄は決して健全なものではなかった。
人々の心は乱れ、町には不正や不義がはびこっていた。ただ一般的には恵まれていたため、「ききん」という言葉は人々の心に届かなかった。むしろその言葉が奇異に響くような中で、アモスはイスラエルに「主の言葉を聞くことのききん」の来ることを語ったのである。私たちは、主の言葉の奥にある神のいのち、神のいつくしみが得られないものになってもしまうものだということを考えて見たい。
今日は礼拝の後で、「賜物のスチュアードシップ」について合同で学ぶことになっているが、「賜物」というのは一言で言えば「賜わり物」のことである。教会ではよくその人のもっている能力や才能のことを賜物という言い方をする。確かに与えられているものではあるが、(例えば、生まれつき器用であるとか、音楽や絵の能力があるとか、等々)そうした生まれつきのものではなくて、後から引き出されてくるものであると思う。
横須賀長沢教会の浅野牧師は、青年時代、歌もメッセージも決して得手ではなかった。しかし神さまのために少しでもいい讃美がしたい、いいメッセージをしたいという彼の思いが、今や、すぐれた賜物を持った牧師として彼を立たせている。いよいよ神学校に行くことになった最後の、東海メールクワイアの創立50周年記念定期演奏会で、ソロをした。彼の声は合唱の合間で、実に自然にのびやかに流れ、心打たれるものがあった。これは一つの例であるが、賜物というのは、ある意味で引き出されてくるもののように思う。
今日学ぶアモス書8章は、賜物のこととは関係がないようであるが、神の言葉は豊かにあふれているのに求められていないということ、求めようとする時には得られなくなるものでもあるということを、それぞれに考えてほしいという意味で、ここからお話をすることにした。
昨年の秋、福岡で猪城先生にお会いした折、先生が「日本の戦後をどうとらえるか、それが今の私の関心事だ」と言われた言葉が、ずっと私の心に残っている。私はアモス書を読みながら、その背景になっているイスラエルの約40年の期間が、日本の戦後の、正確には敗戦後の55年とどこか重なっているように思える。
ひたすら経済復興、高度成長を追い求めながら突っ走ってきたものの、不景気の風にあおられて立ち止まってみたら、物はあふれる程に豊かにあるのに、人々の生活を内側から支える、これと言えるものは何もない感がする。猪城先生は、戦後の歴史を一言で言うと、精神的空白。それがどういうかたちで現れてきているかというと、人を軽く見るようになったということではないか、と言われた。考えてみるとそれは、今やどうしょうもないと思える程に、汚染された空気のように、この時代を覆っている。しかも、それに対する危機意識も弱い。2月5日の朝日新聞に、昨年10〜12月文部省が行った子ども(対象:小5・中2)のしつけや生活についての国際比較調査の結果が公表されていた。
たとえば、父・母から「うそをつかないように」と、どの程度言われるかという問いに対して、「父親によく言われる」のは、日本11%、韓国41%、米国47%、イギリス44%、ドイツ28%。「母親によく言われる」というのも、ほぼ同じ比率になっていた。子どもたちが成長していく上で大切な言葉を、身近かで語る人がどれ程かを示す比率である。利益を追求するだけの効率・能率主義社会では、人のいのちの大事さは軽視され、人は、機械の部品のように代替えのきく、モノでしかなくなっていく。
しかもそれを、誰も不思議に思わなくなっている。例えば、24時間営業の店であるが、昼夜別に働くというのは、病院などの場合は別として、どこか不自然なものがある。企業サイドは採算を考えて、それでもよければということで人を雇用する。双方に利があるようで、痛まないのは企業である。考えてみると、人の歴史というのは、いつの時代も不合理や矛盾を抱えながら続いている。しかし、神は最後まで人に忍耐し、期待しておられるということがあるから、神の歴史と、人の歴史は、重なるようにして続いているのかも知れない。聖書教育の今日の箇所に、人の話をテープで録音すると、その人の話だけではなくて、他のいろんな雑音も入ってくるということが書かれていた。
昨日、ちょうどTV番組で補聴器のことが取り上げられていた。その中で、人間の耳には選択肢というのがあって、必要な、聞きたい音声だけを拡大して聞くという機能があることを知った。ところが、補聴器はそうはいかない。高価で性能のいいもの程、すべての音声が同じように聞こえるので、かえって聞きづらいということを聞く。ついでながら言うと、補聴器をつけると耳の他の機能が働かなくなるのではないかという質問があったが、それに対して、そんなことはない。メガネが必要なように、やはり必要は必要だということを言っておられた。より良いものに改良されていくことを待つ他ないと思うが、考えてみると、この世の中は、テープレコーダーか、補聴器を通して聞いているように、いろんな音声が入ってくる。しかも、それは単なる音声ではなくて、さまざまな性格や力をもっている。そうした中で、神の声(言葉)を聴き分けるということは、容易なことではない。他の音声の方がより大きく、魅力的に響くこともあろう。
旧約聖書の中に、神が語られるという場面が度々出てくる。その中で、少年サムエルが、夜、自分の名を呼ぶ声に目を覚まして、先生のエリが自分を呼んだのだと勘違いをして、エリのもとにいくという場面がある。(Tサムエル3:2−9)。
モーセに神が語られた時も、初めは音声としては分からなかったのではないか。その声を聞き分けた時に、初めてそれが、神の声として彼らの心に響いたのだと思われる。私たちも、私たちを捉えるいろんな音声に支配されないで、まず、神の言葉、神の力、神の思いを受けられるようにしておきたいと思う。