新しい確かな霊を

1神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。 7ヒソプをもって、わたしを清めてください。わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください。わたしは雪よりも白くなるでしょう。 8わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。 9み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。 10神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。 11わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。 12あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。
詩篇 第51篇 1,7-12

いよいよ紀元2000年を迎えた。12月31日も、2日の今日も、自分の気持ちとしてはそんなに変わらないが、1900年代から2000年という新しい時の中に生かされていることを、とても不思議に感じるし、また、感謝したく思う。私たちはこの事実の壮大さと恵みの中で、今まで通りの生き方でなく、「主の年」2000年の中で、更に主のものとして、自分自身をはっきりと感じることが出来るようになりたい。

今日の箇所は、小見出しにもあるように、旧約の歴史の中で、非常に勝れた王として有名なダビデが、ナタンという預言者から自分の犯した罪を指摘された時に、王としての力で彼を抹殺することなく、心から神の前に赦しとあわれみを乞うて書いた詩である。まず私たちは、ダビデが王としての地位を自分の意識からかなぐり捨てて、一人の人間として、主の前に罪の赦しを乞うているその姿に教えられたいと思う。

8節に「あなたが砕いた骨を喜ばせてください」とあることから、病にかかっていたのではないかと思われるが、ある意味で彼は神と自分の関係を考える時を与えられたのではないか。王としての地位が知らない間に彼の意識を蝕(むしば)んでいた。人は権力を与えられると、自分が分からなくなっていくという落し穴がある。シートベルトの例が適当かどうか分からないが、事故というのは自分で気がつかない、思いがけない時に起こることを考えると、それに対する注意、警戒心が必要である。私たちはともすると、大切なことに対して気をゆるめてしまうことが多い。シートベルトも意識しないと、わざわざ着けたくないものである。やはり私たちには、気持ちの面でも縛られたくないという思いがある。そして、自分の気持ちのままに生きることが、自由に生きることだとつい思ってしまう。

「あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもってわたしを支えてください」(12)とはどういうことか。同じ詩篇119に、「わたしはあなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます。」(45)とある。ヨハネ福音書には、主イエスの言葉として、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。」(8:31−32)とあり、パウロもまた、コリントの教会に宛てた手紙の中で、「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。」(Uコリント3:17)と記している。

今日の宣教題は、10節から取ったが、「正しい霊」の「正しい」という言葉は、確かな、ゆるぎないという意味を持ち、直訳すると、「確かな霊を、私の内に新しくしてください。」となる。これはどういうことか。車の運転で、確かな運転をしているという場合、それは基本的な操作技術が、知識とともにしっかり身についていることを言う。若葉マークの時は、誰でもどこか危なっかしい。この「確かな」というのは、私たちのことで言えば、基本がしっかり身についているということである。どうすればそれが身につくのか。それはやはり、そのことに気持ちを集中して、運転で言えば、頭で理解したことが体の動きと一つになることである。それが、とっさの状況に対する的確な判断や対応に結びつくのである。これも、ある意味で、緊張して努力してきたことで身につくことである。

信仰のことで言えば、パウロが「わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから」(ガラテヤ6:17)と語っているように、「神の聖霊を悲しませてはいけない」(エペソ4:30)「御霊を消してはいけない。」(Tテサロニケ5:19)といった言葉を、神から愛されている者として、しっかり身につけることである。そうでないと、車の運転で言えば、簡単にミスや事故を起こすし、信仰のことで言えば、たやすく神の御心を悲しませる行動をとってしまう。間違いを犯しても神は共にいてくださる、赦してくださる、助けてくださるというのが、ある意味で福音のメッセージの中心になるが、むしろそれ以前のこととして、車を運転する時には、事故を起こさないように気をつけるように、生き方の面でも、神の御心を悲しませないように、神のものとされているという意識を、絶えず自分の中で繰り返し、受け止めていくことである。

大切なことは、御心に沿って生きようと、自分で努めることである。どんな人でも、それぞれの目標を目指して努力をするのに、何故、信仰の世界だけ努力がなくていいのか考えてみる必要がある。 私たちは「主の年」2000年を、新しい確かな霊を頂いて、歩んでいきたく思う。そして、それは神からの御思いを受けることにおいて始めて可能となる。だから、まずそれを受ける者でありたいと思う。自分のしたいことがしたいように出来ることが自由なのではなくて、肉の思いとしては自由でないことが、霊において出来るという、そのような挑戦を、今年は是非心掛けてほしいと思う。

昨年の11月、私たちは鳥山美恵先生からとても豊かなメッセージを頂いたが、先生が一番心に残った言葉として、私宛のお手紙に書いて下さったのは、教会のお年を召された方たちが、日曜日の礼拝に向けて自分を保ち、整え、金曜日に髪の毛を洗い、入浴をするという、備えの例として書いた広報紙(8月号No.207)の一文だった。

これは何でもないことのようであるが、大切な基本である。私たちは朝起きて顔を洗ったり、口を磨くという基本的なことが自然のこととして出来るように、(それすらもきつく感じられる時もあるが)自分の心の状態も、きつければきついでしないで済むことを、あえてやっていくということを心掛けて、何ケ月か後になってお互いに証しが出来るようになりたいと思う。

2000年1月2日(日)新年礼拝宣教要旨

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