パウロの確信

20そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。 21わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。 22しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。 23わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。 24しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。 25こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。 26そうなれば、わたしが再びあなたがたのところに行くので、あなたがたはわたしによってキリスト・イエスにある誇を増すことになろう。
ピリピ人への手紙 1:20-26

昨日の結婚式の奨励の最後のところで、良い家庭が良い社会を、そして良い世界を創っていく。あなたがたもその一つの単位だということを言ったが、主に結ばれたキリスト者は、一人一人が神の単位である。今朝のCS(教会学校)では、「福音の前進」という主題で学ぶことになっているが、現実に福音の前進を促すのは、その福音を受けた、単位としての一人一人である。

パウロにとって、イエス・キリストを信じるということは、まさに生き方そのものであった。彼の記したどの手紙にもそのことがよく表れている。今日の箇所で言えば、「いつものように今も」「わたしの身によってキリストがあがめられること」(20)である。「あがめる」(メガルノー)ということは「大きく」(メガ)することであるが、それは「わたしの身において」つまり、存在と生き方において表されるべきものであって、単に内的な事柄ではないということである。福岡の猪城博之先生から「感恩記」(財・西日本文化協会刊)と題した、出版されたばかりの著書を頂いた。

その中に、先生の恩師に当たる楠本正継先生(儒学者)のことについて、――或るとき「悟りとは何でしょうか」と、ぶしつけな質問をしたことがあった。そのとき先生は或るお坊さんの話をして、「そのお坊さんは自由気ままに振る舞って居られるようなのに、その振る舞いはそれを見る人々に安らかさを感じさせたそうだよ」と言われた。先生御自身の立処は、どこまでも儒家としての「敬」にあったかと察せられるが、その「敬」はけっして窮屈なものではなく、安らかさと温かさをたたえたものであった。」――という一文が目についた。

福音を伝えるという場合でも、ただ「あなたはキリストを信じないといけない」とか、「人間は罪人である」と言うこと以前に、神の前に造られたものとして、自分は何者でもないという自覚、おそれが大切である。ここでは、「わたしの身によってキリストがあがめられることである」と書かれているが、別の箇所でパウロは「わたしにならう者となってほしい。」(ピリピ3:17a)と語り、また「彼(テモテ)は、キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかたを、わたしが至る所の教会で教えているとおりに、あなたがたに思い起させてくれるであろう。」(Tコリント4:17b)と記している。パウロは、キリスト・イエスにある自分の生き方を見て、それにならうものとなってほしいと言っているのであって、自分を誇示して言っているのではない。

「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。」(21,22)と言い、「わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。」(23a)とさえ言っている。これは旧約のヨナが自らに課せられた務めに対して、「それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」(ヨナ4:3、8)と語り、エリヤがその務めに耐えかねて、「主よ、もはやじゅうぶんです。今わたしの命をとってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」(列王紀上19:4)と言っている場面を思わせる。

この後の29節に、「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」とあるように、福音を伝える、福音を証しするということは、自分をそこに置くことである。例えば、日曜日を主の日として礼拝を守るということでも、私の知っている限りでは、気楽に出れるから出ているという人はいない。そういうことで私たちは礼拝を守っているのではない。教会の働きを支え、神の歴史の流れに身を置く人たちは、口には出さないが、苦しみをも担っているのである。

愛されているということは、また愛に応えていくということは、重荷を担うということでもある。ただそれを、担わされるとか、押しつけられるということではなく、パウロの言うように、まさに賜りものとして受けるのである。ある意味で、それは子育ての時期を迎えた人が、文字通り重荷を負いながら、その時期を越えていくように、同じことが信仰生活においても言えるのではないか。どんな人にも、担う苦しみと、与えられる喜び、希望がある。

最近、この11月と12月に二人の婦人が亡くなられた。梶田繁子さんは、長らく豊田市にある特別養護老人ホームでお世話になっていたが、先月10日肺炎で亡くなられ、13日ここで葬儀をした。享年89歳。また、この2日には、豊田伝道所の堀さんのお母さんで、同じ伝道所の池田けいさんが、愛知国際病院で、心不全のため亡くなられた。95歳。突然のことだった。豊田の自宅で2日に前夜式を、3日に告別式を行った。このお二人に共通して感じられたのは、本人が行くべき場所、帰るべきところを知っていたという、そこから来る平安な思いだった。家族もまた、それを受けとめて慰められている。

パウロは3章の終わりのところで、「わたしたちの国籍は天にある」と記している。これはただ、行く先が示されているということではなく、国籍を天にもつ者としての地上での生き方を示すものである。私たちは帰るべき場所が備えられていることに感謝し、喜びをもって、神の国を望み見ながらこれからの日々を生きていきたく思う。

1999年12月4日(日)主日礼拝宣教要旨

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