私はいつも、今日のように信仰告白の場に立ち合わせていただく時、天でも喜びの賛美があふれているということを強く覚える。人は死ぬと、主イエスの再臨の時まで、神のご支配のもとに護られて、安らかな眠りを頂くというのが、聖書の語る人の死後に関する教えであるが、その眠りの中で、なぜか澤田さんのお母さんは、澤田さんの信仰告白を嬉しく聴いておられるという気がした。
私たちは、この世界について分からないことがたくさんある。それは宇宙の森羅万象、その営みのことばかりでなく、人一人の人生という限られた枠の中においてすら、分からないことが沢山あると思う。そうした中で、澤田さんは年代が大分たってから、クリスチャンだったお母さんの言葉を思い出されて、自分は「幸せ」と、その次は「忙しさ」の中で、母から教えられていた、祈ることをすっかり忘れていたと言われた。そして、再び祈ることを始められたことが、今日の信仰告白への道筋となった。その告白を伺いながら、澤田さんのお気持ちの前に、既に神の深いご配慮、導きのあったことを思った。今日、この日、11月7日に、キリスト者として、天にも教会にも、その名が記されたことを嬉しく思う。
さて、11月5日金曜日、夜のNHKテレビ番組「ドキュメントにっぽん」で、柳沢桂子さんという生物学者の半生記のようなものが放映された。(番組のタイトルは「いのち再び、生命科学者・柳沢桂子」病からの生還・自ら体験した命の不思議ー)。現在は立って歩けるようになったが、最初は全身の節々が痛む難病で、彼女にとって一番辛かったのは心因性の病のように医師から診断されたことだった。御夫君も最初は医師の言葉をそのまま信じていたが、どうもそうではないようだと思うようになって、いろいろな文献を調べ始めたところ、世界にはどう対処していいか分からない、原因不明の難病が実にたくさんあることを発見された。現在では、いろんなことが解明されて、人はいのちの操作にまで手をつけるようになったが、しかし、実際には分かっていることよりも分からないことの方が多いということを思う。神さまのことも同じである。
聖書の言葉によれば、失われたままの状態の人たちが多くいる。「失われる」ということは、あるにはあるが、あるべきところにないために、あることの意味が分からなくなっている状態のことを言う。生きていのちの意味を知らない、いや、知ろうとしない人たちが多くいる。しかし、私たちはそうした中で、御霊がうめきをもって神にとりなして下さっている存在であるということを、今日のこのみ言葉から、是非、覚えたいと思う。
今朝のみ言葉は、私たちの日々の歩みがどんなに大きな力によって護られているかを語っている。
神のものとして生きる、あるいは生きようとしている私たちの歩みとその動き・営みを、見えないかたちで、いつもそば近くにいて助けてくださる方がいるということ、その方の故に、私たちは24〜25節にあるように、神の栄光に与かるその日を待ち望みながら生きることが出来る。待ち望むということは、動かないでただ、じっとしていることではない。今与えられている神との関係を喜んで生きるということである。世の中には、この世の富に執着し、そのことのために働いている人たち、あるいは、人よりも抜きん出ようとして、一生懸命な人たちがいる。また、この世の力や権力を得ることを生き甲斐としている人たちもたくさんいる。しかし、私たちはそうした中でイエス・キリストにおいて、神の愛を示され、それを最上のものとして生きることを教えられている。
いつもその事実に立ち返り、立ち直ったところで、また新たないのちと力を頂いて、新しい歩みへと押し出されていく。何と嬉しく、有り難く、喜ばしいことではないか。この関係は、いくらこの世の富や権力をもってしても、それだけでは得ることの出来ないものである。私たちはそれぞれ、毎日の生活の中でいろんな誘惑や試練を経験する。そうした中で、神から離れてしまう人もいるが、また一方では、神との関係においてそれらを乗り越えて進む人たちも多い。私たち一人一人も、既に大きな力の中にあることを思って、今抱えている試練や、これから起きるであろう試練に対していきたく思う。私たちがここでまず注目しなければならないのは、御霊(聖霊)ということである。14節に「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。」とある。
御霊(聖霊)というのは、私たちが神との関係からはずれないように、主イエスの求めに応えて、神が私たちに送って下さる「霊」のことである。その働きについて、「御霊もまた同じように、弱い私たち(原文では「私たちの弱さ」)を助けて下さる。」とある。人間一般ということではなく、すでに恵みに与かっているこの私たちの弱さをである。それが何をさしているかというと、ここでは祈りにおいてである。「なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが・・・・・」とある。これは、祈りの熱心さとか、祈り方を言っているのではない。別の言葉で言えば、私たちは、自分で自分を知っている以上には、自分自身やその状態を知らないのである。これから先のことが分からないということもある。何が最善のことか分からないということもある。
しかし、御霊はそんな私たちを助け、とりなして下さるのである。「助けて下さる」という語は、側近くにいて、私たちが負っている重荷を代わって担って下さるという意味である。このところに即して言えば、御霊が、私たちの思いの至らないところ、表現の出来ないところを、私たちに代わって神に訴え、とりなして下さっているということである。それも「言葉にあらわせない切なるうめきをもって」とあるように、私たちの知らないところで、私たちのために大変なことをして下さっている。言葉をかえて言えば、だから、「御霊」に信頼して、安心してしっかり祈れということである。
私たちは全く言葉が通じない、自分の気持ちが分かってもらえない、特に身近かにいる者に対してどうしたらいいか、どのように祈ったらいいか分からない時に、なおかつうめくような思いで、祈ったということがあるだろうか。しかし、主イエスが私たちに約束して下さった「御霊」は、今なおうめきをもって神の前に、私たちのためにとりなして下さっているのである。「この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。」(ヨハネ14:17b)。
私たちがこうして教会に集い、礼拝を共にしているのは、「わたしは道であり真理であり、命である」(同14:6a)と言われた主イエス・キリストのみ言葉に与かるためである。
もし、私たちがそのみ言葉に信じて一歩を踏み出せば、信じないままでいるよりは、信じて分からされることが、世界が広がる。イエス・キリストの十字架、また、うめきをもって私たちのためにとりなしをして下さる御霊の働きを切に感謝して覚えたい。