今朝は、名古屋の東区にある金城学院と姉妹校としての提携協定を結ばれ、その調印式のために来名された韓国、木浦(もっぽ)の貞明(じょんみょん)女子中学、高校並びに、全州(チョンジュ)の紀全(キジョン)女子中学、高校の校長先生方と、韓国キリスト教学校連盟の事務総長をしておられる安先生をお迎えして、共に主の日の礼拝が守れることを嬉しく思う。
今日は体育の日と、3連休ということで、運動会があったり、ふだん離れている家族と会うということがあったりして、やむを得ずお休みの方たちもいるが、私たちはこうして、韓国からのお客様をお迎えして、運動会以上の喜びと興奮を心の内に覚えている。今日の宣教題を「神の慈愛と忍耐と寛容」としたが、4節には「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか」とある。私たちは「富」というものをどのように、あるいはどのようなものとして受けとめているのだろうか。辞書には「人間の生活を豊かにするのに役立つ物資・資源」とあり、用例として、富(=財産)を作る、とある。(新明解国語辞典、三省堂)
しかし、ここで語られる富というのは、まさに神からの富、その豊かさである。私たちにはないもの、同じようにはとても持ち得ないもの、いや、受ける以外に頂くすべのないものである。それはまた、神を知らされ、自分自身を鏡の前に立つように見る目を持たなければ「神の慈愛、忍耐、寛容」ということは分からないのではないか。
教会の友愛セールが、婦人会の方たちによって行われたが、教育館ロビーに並べられた出し物のコーナーに、洋風の家を模した小さな陶器の置物が2つあった。実際にはどれ程の値打ちのものか分からないが、昨日、会堂長椅子の補修に来ておられた青年のkさんが、帰られる時にそれが欲しいと言われた。これは、彼が読んだ雑誌の中で、国際線のオランダ航空を利用すると、もらえると書いてあったものらしく、大きさはわずか5〜6センチの簡単な置物であるが、そういう話を聞くと、その陶器の家の形から何かオランダの領土とか風景までが想像される。
裏返すと、長崎のハウステンボス(ヨーロッパの町並みを模して造った観光施設)のしるしがつけられていた。小さな置物一つ取っても、知ると知らないとでは価値観も想像力も違ってくる。聖書の語る神を知らされることによって分からされる富・恵みの数々は、私たちの想像をはるかに越えるものである。しかし、普通人が知り得るのはほんのわずかのことである。私たちが夜空で目にする星にしても、何光年先からの光が届いているのだと言われても、よほど天体に興味を持っていない限り、時折、星空を眺めて悠久を感じることはあっても、それだけで日々は通り過ぎてしまう。そういう意味では、神のことも同じなのではないか。
この手紙を書いた伝道者パウロは、まさに父なる神のみ心を、イエス・キリストを知ることにおいて悟ったのである。それ故に、彼は生涯をかけて、唯一の主なる神の愛、イエス・キリストを伝えずにはおれなかった。何故なら、彼はそれに深く打たれ、またその愛に迫られ、その熱情にあふれずにはおれなかったからである。
聖書、特に旧約聖書には、神が選ばれたとするイスラエルの民の歴史が書かれている。モーセによってエジプトを出てから約束の地カナンに至るまでの荒野の40年も、カナンに定住し、王制がしかれてからの約400年にわたるその歴史も、神から離れては立ち戻り、立ち戻ってはまた離れるといった、その繰り返しの歴史である。国の独立を失っても彼らは、そうした中で、自分たちは神から選ばれた特別な民であると考えていた。そして、他の民族、つまり彼らが異邦人と称する人たちは神を知らない、律法を持たない人々で、彼らはその行いによって裁かれ、神の怒りがその上に下るというふうに考えていた。
今では形が変わってきたが、その昔、裕福な家庭の子が、そうでない家庭の子を、ただ家が貧しいというだけの理由で、自分よりも下に見ることがあったように、自分たちは特別だという意識を持っていた。「だから、ああ、すべて人をさばく者よ。」とある。「さばく」という言葉は、もともと「分ける」「選ぶ」「判別する」ことを言う。つまり、その位置に自分を置くことである。しかし、パウロはここで「あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。・・・・ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。・・・・」とかなり激しい口調で語っている。そして、今日読んだ最後のところ(11節)で、「なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。」と記し、もし、特別な恩恵があるとすれば、それは、神のみ心を求めて歩む人にのみあるのだと語っている。4節に、「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで・・・・」という言葉がある。「悔改める」という表現は、一般的には、反省する、改心する、あるいは、「今までの自分の行動が悪かった(間違っていた)ことに気づき、それを直す(ことを心に誓う)ことを意味する(新明解国語辞典)が、聖書においては、むしろ心の向きが変わること、変えられること、「回心」することを言う。私たちはいつも自分が主で、自分の心の方に気持ちが動く。
そこで、パウロがガラテヤ5:19−21に記している「肉の働き」が力を持ってくる。私たちがこの箇所からまず学びたいのは、パウロの神に対する感謝と恐れの気持ちである。彼はイエス・キリストを知った喜びの中で、自分は今まで完璧な人間のように思ってきたが、「主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものをふん土のように思っている」(ピリピ3:8)とさえ言っている。
私たちは今日、パウロの「あなたは神の慈愛と忍耐と寛容の富を軽んじるのか」という言葉をしっかりと心にとめて、自分の生き方を神のものとして整えて、「あなたは、自分は富んでいる。
豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」(ヨハネ黙示録3:17)と言われないように、神の目から見て、豊かな者にされていきたく思う。