大いなる恐るべき主を覚え

7ところがサンバラテ、トビヤ、アラビヤびと、アンモンびと、アシドドびとらは、エルサレムの城壁の修理が進展し、その破れ目もふさがり始めたと聞いて大いに怒り、 8皆共に相はかり、エルサレムを攻めて、その中に混乱を起そうとした。 9そこでわれわれは神に祈り、また日夜見張りを置いて彼らに備えた。 10その時、ユダびとは言った、「荷を負う者の力は衰え、そのうえ、灰土がおびただしいので、われわれは城壁を築くことができない」。 11またわれわれの敵は言った、「彼らの知らないうちに、また見ないうちに、彼らの中にはいりこんで彼らを殺し、その工事をやめさせよう」。 12また彼らの近くに住んでいるユダヤ人たちはきて、十度もわれわれに言った、「彼らはその住んでいるすべての所からわれわれに攻め上るでしょう」と。 13そこでわたしは民につるぎ、やりおよび弓を持たせ、城壁の後の低い所、すなわち空地にその家族にしたがって立たせた。 14わたしは見めぐり、立って尊い人々、つかさたち、およびその他の民らに言った、「あなたがたは彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、あなたがたの兄弟、むすこ、娘、妻および家のために戦いなさい」。
ネヘミヤ記 4:7-14

商店街の主催する11回目の「今池まつり」が、昨日から今日にかけて行われている。この教会もメイン会場の一つになっている関係で、同実行委員会青年部で作って下さった「教会コンサート」や「いきいき今池お祭りウィーク」のポスターと併せて、礼拝の宣教題を書いた看板を立てた。「大いなる恐るべき主を覚え」という宣教題は、お祭りの催し会場として入ってくる人たちには、いささかそぐわないのではという思いもあったが、あえて掲げることにした。

この言葉(14)は、恐れからの解放と、真に家族を護るものは何かという大切な課題を含んでいる。「あなたがたは彼らを恐れてはならない」の「彼ら」というのは、ネヘミヤが手掛けているエルサレムの修復工事を快く思わない人たち、それを妨害しようとする人たちのことで、その代表としてあげられているのがサンバラテであり、トビヤである。サンバラテはサマリヤ州の総督。トビヤは、アンモンびと奴隷トビヤ(2:10、19)のことで、結婚によって地位を得、力をもつようになった人物。二人は先頭に立ってネヘミヤの修復工事を妨害した。理由は、バビロン捕囚以来、サマリヤの支配下にあったエルサレムが、ネヘミヤによって修復強化されることで、従来の力関係がそこなわれると考えたためであろう。

ただ、この工事がペルシャ王の許可のもとに行われていたため、彼らの妨害はあざけりや中傷にとどまった。彼らは、そうすることで、人々の気力をくじこうとしたようである。しかしネヘミヤは、そのような彼らに対して不思議なほど、何の反応も示していない。次の節(4、5)は、ネヘミヤの祈りの言葉になっている。そして工事は着々と進められていった。彼らはあざけりや中傷だけでは効果がないと考えたのか、実力行使に出ようとした。9節に「そこでわれわれは神に祈り、また日夜見張りを置いて彼らに備えた」とある。危急の中にあって、まず、神に祈り、そして、日夜見張りを置いて彼らに備えたネヘミヤの対応は、私たちも心に留めるべきである。しかし、このような状態は長くは続かなかった。

人々の間に疲れを覚え、工事の困難を訴える者が出てきた。「・・・・われわれは城壁を築くことができない」(10)というのは今までのような気持ちの張り、気力が人々の中からなくなっていたことを示している。それに乗じて、敵の攻撃には執拗なものがあった(11)。更に、このままでは被害が自分たちにも及ぶという理由で、工事の中止を求める住民たちの訴えが十度もあったということは、この時の状況がどんなに厳しいものであったかを示している。

今日中心にとりあげた14節の言葉は、このような中で語られたものである。人々の心を根強くとらえている恐れの感情に対して、ネヘミヤは信仰によって立つことを求めている。信仰という言葉は、旧約ではアーメンと同じ根をもつエムーン、エムーナーで、真実とか堅い、動じないという意味をもっているが、「信仰」という訳で出てくるのは2ケ所(イザヤ26:2、ハバクク2:4)だけである。

むしろ、ほとんどの場合、「真実」という訳語が当てられている、ということは、人は神に対して、どれ程の真実で対しているか、ということにもつながる。そういう意味で、人はむしろ自分の欲望とか思いに対して、支配されやすいことを思わされる。旧約では信仰に生きる人のことを、「主を恐れる者」という言葉で表現されている。

今、水曜日の集会では詩篇を学んでいるが、先週は103篇だった。その中にも、「天が地よりも高いように、主がおのれを恐れる者にたまわるいつくしみは大きい」(11)「父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる」(13)とある。また17節には、人のいのちの無常、はかなさを歌った後で「しかし主のいつくしみは、とこしえからとこしえまで、主を恐れる者の上にあり・・・・」とある。

もう一つ、「主を恐れる」ということに関連して、申命記10:12−13を開いていただくと、そこに「イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事は何であるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。」とある。

これだけのことを、「ただこれだけである」と語られているわけであるが、一番大切なことから語られていると考えるなら、まず「あなたの神、主を恐れ」というのが、それに当たるのではないかと思われる。何故なら、主がどのようなお方であるかということを知ることから、あるいは知らされることから神の民としてのイスラエルの歴史は始まったし、神を知った者の歴史は始まると言えるからである。確かに「神は愛である」(Iヨハネ4:8)。しかし、その愛である神がどのようなお方であるかを正しく知るということは、私たちにとって大切なことである。

今読んでいただいたその後の14−15節に「見よ、天と、もろもろの天の天、および地と、地にあるものとはみな、あなたの神、主のものである。そうであるのに、主はただあなたの先祖たちを喜び愛し、その後の子孫であるあなたがたを万民のうちから選ばれた。今日見るとおりである。」と記されている。主なる神がどんなに大いなるお方であり、私たち全てのものは、そのお方の前で、全く何者でもないということを私たちが知るということは、とても大切なことである。私たちは、主を恐れるよりも主の愛の方を強く受けている。主もまた私たちが、その愛を受けて歩むことを望んでおられる。

しかし、同時に神は、特に旧約においては、聖なるお方、義なるお方であって、そういう意味において、私たちから限りなく遠くへだたったお方である。そのお方がご自身をあらわされたということである。神の愛の中に私たちが生かされていることを知ることは大事なことであるが、同時に神に対して恐れの心を持つということは、私たちにとって大切なことである。折角だからその後のところにも少しふれておきたいと思うが、「そのすべての道に歩んで、彼を愛し」というのは、その人の生き方を示す言葉である。次に「心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え」とある。この「つくす」とはどういうことか。以前ある兄弟が、自分は毎日が大変で、とにかく教会に来ている時しか、教会のことは考えられない、と言っておられたことがある。

これは、自分の生活の状況を語られた言葉だと思うが、信仰というのは、ただそれを意識している状態を言うのではない。Iテサロニケ5:9−10に「神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。」という言葉がある。

このようなお方を主として、あるいは主イエス・キリストにおいて父と呼ぶお方として、私たちは頂いているのである。だから大事なことは、どのような状態の自分も、既に神の御支配の中にあること、置かれていることを思って生きることである。朝目を覚ましたとき、夜床につくとき、通勤・通学の途中、あるいは道を歩いているときでもいい。今の自分を神の御思いの中に生かされている者として覚えることが大切である。「主の命令と定めとを守って」とある。

毎日経験することの中で、「人を愛せよ」とあっても、なかなかそのように出来ないということを聞くが、神はそのような自分をそのままに愛し、忍耐して下さっていることを思えば、あきらめや絶望に至ることは決してない。道はいつも開かれているのである。

更に、人生の途上で常に待ちかまえている強い誘惑や恐れ、無気力の支配を覚える時に、「恐れることはない」というこの言葉を思い起こしてほしい。主イエスは、「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」(マタイ10:28)と言っておられる。このことを知らされていることに、私たちは深い感謝を覚えたい。

1999年9月12日(日)主日礼拝宣教要旨

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