真の礼拝を求めて

1そこで王は人をつかわしてユダとエルサレムの長老たちをことごとく集めた。 2そして王はユダのもろもろの人々と、エルサレムのすべての住民および祭司、預言者ならびに大小のすべての民を従えて主の宮にのぼり、主の宮で見つかった契約の書の言葉をことごとく彼らに読み聞かせた。 3次いで王は柱のかたわらに立って、主の前に契約を立て、主に従って歩み、心をつくし精神をつくして、主の戒めと、あかしと、定めとを守り、この書物にしるされているこの契約の言葉を行うことを誓った。民は皆その契約に加わった。
列王紀下 23:1-3(-14)

今日の宣教題は、テキストと共にCS成人科からとらせていただいた。「真の礼拝」とは、と自分なりに考えてみた。「求めて」となっているので、礼拝の場所とか、礼拝をするというところで考えた。そこで思い出したのは、この4月、中国キリスト教協会代表団をお迎えした時の、ツァン・シュリアン牧師(湖北省中南神学院)の言葉である。

これは文革時代のことであるが、信仰の自由が禁じられていて、集会は9−10キロ離れた秘密の場所で守られていた。親子でやっとたどり着いた時は、すでに集会が終わっていて、母は泣いた、というお話があった。これは、やはり「真の神と交わる礼拝を求めて」という、今日の主題に添った証しというか、お話だったと思う。

確かに礼拝ということにおいては、唯一、真の神でいますそのお方を、教会という一つ所に集まり、神を知らされた者として、み言葉(聖書)の説き明かしを聴き、賛美を共にするということが、真の礼拝を守るという一つの表現になる。しかし、「礼拝を求めて」の前に、「真の」という一語が入ると、真の神を礼拝するということだけでなくて、礼拝をする者の普段の在り方、生き方も同時に問われるように思う。

今までに何人ものお年を召した方から、自分は日曜日の礼拝に出るために月曜日から体調を整える。頭は金曜日に洗い、土曜日には入浴して日曜日に備える、ということをお聞きした。それでは元気がよくて体力のある人は、そうした心遣いが不必要かというとそうではない。やはり月曜日から、日曜日のことを思って生活していかないと、どうにもならなくなるものがある。アブラハムが旅の途上で祭壇を築いていったように、日々の中で、神と自分の交わりの時という「  」(括弧)のつく時間をそれぞれにとって、点が線になっていくようにすることが大切である。そうでないと、日曜日の礼拝が本来の意味を失って、ただきついだけのもの、あるいは容易に他の事情に取って替えられるものになってしまう。

中日新聞の記事の中に、「今は夫と妻の関係も、親と子の関係も、確かにあるけれど、単にそれぞれが、それぞれの位置にあるだけで、何か失われている」という意味のことが書かれていたが、それぞれがしなければならないこと、したいことの中に、相手のために自分の時間や心をさくということが出来なくなってきたように思う。それはまた、現代社会の風潮のようでもある。しかし、神と私との関係において、そこで泉のようなものがつくられていくことが大事である。しかもそれは、自分がつくっていくというよりも、既に与えられたもの、備えられているものを失わないということが大切である。

毎水曜日、詩篇を学びながら97篇まできた。97篇は「主は王となられた。地は楽しみ、海に沿った多くの国々は喜べ」という言葉で始まっている、バビロン捕囚の後の歌で、作者は不明であるが、何か躍動する喜びが読む者の心に伝わってくるのを覚える。私たちは、このダイナミックな、出来事を伝える歌を人生の労苦の中で与えられているのである。「真の礼拝」というのは、一週間を通して「王」として即位された神を思うことであり、そして一日一日の中で神を思うことである。

以前、一人の姉妹が、日常のことについて、自分のことでは気がつかずに、たっぷり時間を取っているのに、教会の礼拝とか集会のことになると、つい重たくなってしまう。最初にあれもしよう、これもしようと思いながら、あれもできない、これも出来ないということから、神さまのために何かをしていくということが、後回しになってしまうという話をされたことがある。

何事もまず、心にきめることが大切である。礼拝を守る、聖書を読む、祈るということを自分で決めていくことが大切である。そうでないと、自分では気がつかない状態で、この世の力に振り回されているということになる。どっちみち振り回されるのである。その振り回される中で、自分なりのめり張りをつけていくことが大切である。

今日のところは、ユダの王ヨシヤが人をつかわして、ユダとエルサレムのすべての長者を集め、またユダのすべての人々、エルサレムのすべての住民、祭司、預言者、ならびにすべての民を従えて主の宮にのぼり、そこで見つかった契約の書のすべての言葉を彼らに読み聞かせ、自らもこの契約の言葉に従うことを誓った。そして、民も皆、その契約に加わったとある。ヨシヤは、主の目に憎まれるもの(それらはすべて祖父マナセ、父アモンによって持ち込まれたものであることが21章に記されている)を、一つ一つ取り除いていった。

しかし、一つの偶像にも(それ自体は取り壊すことの出来るものであるが)、それに関わる祭司たちや人々のそれまで積み重ねられてきた生活を思う時、王の権威だけでは容易に執行出来にくいものがあったと思われる。それは、大国を向こうに回しての戦いよりも、はるかに心労を要する大変なことであったに違いない。

彼はおそらく日々祈りながら、主の助けを求めつつ、まさに、偶像を取り壊していくという戦いを始めていった。ヨシヤが取り壊し、取り除いていったそれらが、今日の私たちにとって何に当たるのか、それぞれのこととして考えていただきたい。いざという時に、自分を守るものは自分しかないという言葉をよく聞く。ある意味ではそうである。そしてまた私たちも、自分が神のものとして、自分を守っていくという戦いを日常の中でしていかないと、教会と全く関わりのない友人、知人に、いざという時は、神が自分を守ってくれるとか、神がいつも自分と共にいてくれるということをいくら語っても、勝手に言っている位にしか思われない。

「真の礼拝」と言うのは、神の前に、いつも自分自身を、神のもの、その御思いの中に置かれているものとして整えていく日々を積み重ねていくことの中にある。ヨシヤ王は、主の宮で見つかった契約の書に記されているさばきの言葉に衣を引き裂き、民と共に、主の前に新しく立ち返ることをきめた。私たちも、一人一人、日々主の前に立ち返る時を持つと共に、身近な者への祈り、語りかけを努めていきたく思う。

1999年8月22日(日)主日礼拝宣教要旨

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