エリヤはケリテ川のほとりに住み

8その時、主の言葉が彼に臨んで言った、 9「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。 10そこで彼は立ってザレパテへ行ったが、町の門に着いたとき、ひとりのやもめ女が、その所でたきぎを拾っていた。彼はその女に声をかけて言った、「器に水を少し持ってきて、わたしに飲ませてください」。 11彼女が行って、それを持ってこようとした時、彼は彼女を呼んで言った、「手に一口のパンを持って来てください」。 12彼女は言った、「あなたの神、主は生きておられます。わたしにはパンはありません。ただ、かめに一握りの粉と、びんに少しの油があるだけです。今わたしはたきぎ二、三本を拾い、うちへ帰って、わたしと子供のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」。 13エリヤは彼女に言った、「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたとあなたの子供のために作りなさい。 14『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。 15彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした。彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。 16主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。
列王紀上 17:(1-7)8-16

列王紀上17:1〜16を読んでいただいた。ここのポイントは、エリヤが主の言葉に従ってヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに身を隠したということ、つまり、そこから彼の預言者としての生活が始まったということである。もう一つは、まさに自ら命を断とうとしていたひとりのやもめ女が、エリヤの語った「恐れるにはおよばない」という言葉に従って、新しい生活に入ったということ、つまり恐れは身に及ばないということである。

ここに出てくるエリヤという人は、新約聖書のマタイ・マルコ・ルカの福音書の中にもその名が度々出てくる、よく知られた人物である。マタイ福音書16章に、主イエスがピリポ・カイザリヤで、弟子たちに、「人々は人の子をだれと言っているか」と尋ねられた時、彼らは「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。

しかし、ほかの人たちはエリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」と答える場面(14)がある。また、27章には、主イエスが十字架の上から呼ばれた「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)という言葉を聞いて、そこにいた人たちが、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」(45〜47)と言ったことが記されている。

こうしたことから、エリヤが特別な預言者として人々に覚えられていたことが分かる。ところが、このエリヤが旧約聖書の中で初めて登場するのはこの17章である。しかも、いきなり、「ギレアデのテシベに住むテシベびとエリヤはアハブに言った」というかたちでである。アハブというのは、北イスラエルの7人目の王である。彼のことについて、16章33節に「アハブは彼よりも先にいたイスラエルのすべての王にまさってイスラエルの神、主を怒らせることを行った」とあり、その前に「彼はネバテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし、シドンびとの王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、これを拝んだ。・・・・」(31−33a)と主を怒らせた理由が記されている。

とにもかくにも、一国の王に向かってエリヤは「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」(1)と、日照りの災害が間もなく臨むことを告げている。これは一つに、当時の預言者が人々から一目置かれた存在で、王と言えども彼の言葉を聞いたということである。ギレアデのテシベというのは、王の住むサマリヤからちょうどヨルダン川を隔てた東の奥地に位置するが、主からの示しを受けて、彼はアハブ王に会うためにわざわざ出かけたということである。

しかし、エリヤがアハブに主の言葉を告げると、すぐその後に再び主の言葉が彼に臨み、「ここを去って東に赴き、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠しなさい」(3)と告げている。宣教題を「エリヤはケリテ川のほとりに住み」としたのは、預言者としての彼の生活がここから始まったということを心に留めたからである。

続いて主の言葉はエリヤに、「そしてその川の水を飲みなさい。わたしはからすに命じて、そこであなたを養わせよう」と告げている。私たちはいきなり、からすとパンと肉の話に心を奪われて、5節の「エリヤは行って、主の言葉のとおりにした」という一行が、印象として薄くかすんでしまう。しかし17章の大きなポイントの一つは、「エリヤは行って、主の言葉のとおりにした」ということである。机の上に車のキーや腕時計を置いたまま、その上にとりあえずというかたちで郵便物が置かれ、本が置かれ、ノートが置かれ、キーや腕時計を捜すために、上に積んだものを横にずらせていくと、下の方からそれが出てくるという経験をよくする。

これは一つの例えであって、物に限らず目先のことに追われ、取り紛れて、大切なことが見えなくなる。そして、見えないまま過ぎてしまうということが、人生にはよくあるように思う。ここで申し上げたいことは、しかし神からの時は決して途切れず、止まらず、御計画に従って成就されていくということである。ただ、神という、目に見えない保護者を知らされない人、またその存在に心を開かない人は、どうしても自分で自分の「時」−人生−を采配してしまう。

最近の新聞(7月2日)で昨年度の自殺者が過去最高の32,863人になったこと、(一日に90人!)特に40代、50代を中心に激増しているということを知った。また、同じ日の新聞に、「大学生に広がる心の病」という見出しで、「大学生の死亡原因」(大学生協調べ)が円グラフで示されていた。227人の内訳は、スポーツ事故4、日常生活中の事故17、交通事故61、病気62、自殺83、全体の36,6%が自殺で、前年の59人(28,2%)から大幅に、それも3,4年生の割合が増えているということだった。自殺者に共通するのは、自分で見える未来に対して、興味を失ってしまう、意欲を失ってしまうということのように思う。しかし、神が人に見せて下さるその人の姿、未来もあるのだということを思いたい。

次にエリヤに臨んだ主の言葉は、「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」(9)ということだった。ザレパテというのは、地中海に面したフェニキヤ(アハブ王が妻としたイゼベルの出生地)のシドンとツロの間にある小さな港町である。彼がそこで出会ったやもめの女は、自分の未来に対して、全く絶望していた。

彼女が自分に出来ること、そして、しようとしていたことは、かめに残っている一握りの粉と、びんに残った少しの油でそれを調理し、子どもとそれを分けて食べて死のうということだった。

その彼女に対して、エリヤが語った言葉は、「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい」(13)ということだった。苦しみの中であれ、絶望の中であれ、私たちが、まずしなければならないことは、(これは、そうすることがゆるされ、求められているという意においてであるが)、心を神に向けることである。そして、彼女がエリヤに言われたとおりにすると、有名な「かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない」という奇跡が起こった。

どうして粉は尽きず、びんの油は絶えなかったのか、これはエリヤとの会話の中で、彼女が自分の未来を「恐れるにはおよばない」というかたちで見たということである。そして、自分の判断を超えた主にゆだねる方に自分を置いたということである。彼女は飢えに弱って動けなくなっている自分の姿ではなく、未来に対して立ち向かわされる自分を感じたのである。エリヤが彼女に語った「恐れるにはおよばない」という言葉は、恐れと不安の感情がもたらす縛りから彼女を解放した。

つまり彼女にとって、今が望みのない最後の時にはならなかったということである。すなわち「かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった」ということである。別の言い方をすれば、神に対する信頼こそが、私たちに自分の道を開かせて下さるということである。

私たちが、自分を神に創られたものとして、少しでも御心に近づけようとするならば、私たちの気付かない以上の未来の重荷は取り除かれて、現在を自分の最善で歩んで行くことが出来るのである。

「恐れるにはおよばない」恐れは神に信頼を置くあなたにおよばないということである。私たちは今日のみ言葉から、新しい自分の未来への力を頂いていきたく思う。

1999年7月18日(日)主日礼拝宣教要旨

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