ヨハネ17章は、主イエスの最後の祈りが全体を占めている。記録された、しかもこのように長い祈りはここだけである。内容的に、6〜19節は特に後に残される弟子たちのために祈られた、とりなしの祈りになっている。「いま彼らは、わたしに賜わったものはすべて、あなたから出たものであることを知りました。なぜなら、わたしはあなたからいただいた言葉を彼らに与え、そして彼らはそれを受け、わたしがあなたから出たものであることをほんとうに知り、また、あなたがわたしをつかわされたことを信じるに至ったからです。」(7、8)とある。「わたしをつかわされた」方というのが、主イエスが父と呼ばれていた神であることを弟子たちは知ったのである。
話は変わるが、10日程前の中日新聞「中日春秋」の欄に「名前で得をすることがある」という文章が載っていた。何でも西武グループの一部ホテルが、あの松坂大輔投手と同姓同名の人の宿泊料を無料にするサービスを始めた、ということである。同姓同名とまでいかなくても、氏名に「松・坂・大・輔」のいずれかの文字があれば、字数に応じて宿泊料を7割〜2割引するとあって、早速に問い合わせが相次いでいるということ、そして、今年は「大輔」という名前がつき年らしいとあった。大輔という名前は、1980年頃一番人気のあった名前で、79年から8年連続トップ。80年夏の甲子園で準優勝した早実の一年エース、荒木大輔投手にあやかっての命名も多かったようである。
名前はその時々の流行というか、時代を反映するものがあるが、いずれにせよ、親が自分の子どもに対する期待や願いを込めてつけたという点においては変わりない。しかし、神の御名というのは、私たちがそれを聞くだけでは、神について知ることは到底できない。神がどういう方であるかということについては、預言者の口を通し、聖書を通し、イエス・キリストにおいて語り続けられている。一言で言えば、永遠のお方だと言うことである。
6節からのところに、「・・・・あなたが世から選んでわたしに賜わった人々」とか「彼らはあなたのものでありましたが、わたしに下さいました。」という言葉がある。これは全てのものは神の御支配の下にあるということであるが、何よりも、主イエスが弟子たちを父からの賜わりものとして受けて下さっているということである。9節に「わたしは彼らのためにお願いします。わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜わった者たちのためです。」という言葉がある。「この世」というのは、神の御支配の内にあると言っても、それを受容する状態にはない。
神の言葉とか戒めは、受けられていくか、はじかれたままのどちらかであるが、はじかれたままで終わらないで、み言葉が浸透していくことを考えると、やはり「この世のためにではなく、あなたがわたしに賜わった者たちのためです。」となる。と言うことは、神が主イエスに賜わった者、主イエスから言葉を受けた者は、その存在が既にイエス・キリストのものとしてあるということである。それがまた、「聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。・・・・わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。」とある。「御名によって」考える、「御名によって」行動を決めていくということが、深い意味で、まもられて生きることになることを、この言葉は示している。
それがまた16節の「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。」という言葉につながる。しかし、私たちはこの世の者である。この世で生活しているのである。まさにその中で「真理によって彼らを聖別して下さい」という主イエスの祈りがあり、「また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。」(19)という祈りがある。主イエスの語られる「聖別」とはどういうことか。それは、特別な目的のために、「取り分ける」ことである。父なる神の御心に従って行動されるために、主は御自身を聖別されたのである。私たちもこの主につながれたものとして、自分の生活の中での「取り分け」を心がけたい。それは常に、日常的には、神の前に自分の存在を思いみることである。
先日の、これまた「中日春秋」の欄で、先週から今日6日までが「世界禁煙週間」であることを知った。毎日60本以上吸っていた筆者が、健康上の理由から禁煙を決意した時のことが記されていた。完全にやめるまで約一年を要したこと、自分の体験で言えば、意識革命こそ禁煙の近道だという言葉があった。また、そこに奈良の病院で禁煙外来を開設している内科医の言葉が紹介されていたが、禁煙を試みる人には二つの悩みがある。一つは何度試みても失敗する。もう一つは、禁煙しなくてはいけないと思っているけど、スタートが切れない。
後者のタイプに一番効くクスリは、経験者の話ですとあった。記事を読みながら、これはタバコのことだけではないという思いがして、印象に残った。私たちは、ただ単に生まれて、生きて、死ぬというだけの存在ではない。人ひとりのいのちは、全世界よりも重いと言われる、そのような存在であることを、いつも思っていたい。しかしまた同時に、生と死を紙一重の差で併せ持っている存在でもある。そうした中で、私たちの生きる意味というのは、私がどう感じるかということの中にではなく、神のいのちの書にどう記されていくかということにある。そのことをいつも心に留めておきたい。
もし私たちが、ただ、人との比較や自分の感情によって動かされているとしたら、人生は落ち着きのない空しいものになってしまう。イエス・キリストの弟子となった人は、イエス・キリストを通して御名の存在者(神)を知ったことで、その存在者に自分をゆだね、明け渡していく人生を選んだのである。私たちも、本当には神を知らない人々の多い中で、神を知らされているわけだから、その中で、自分がどう感じるとか思うとか以前に、神に受けとめられているということ、求められているということを改めて思いたい。そのことのために、主イエスの受難の生涯があったし、また、この17章の、主イエスの祈りがあることを覚えたい。