今日の箇所が、ラザロの死と葬りに関係しているせいか、聖書教育の科別での学びの切り出しも「葬儀」から始まっている。
そのことと直接関係はないが、先日、一人の兄弟から、「自分だっていつ死ぬか分からないから、知っておきたい」ということで、キリスト教の葬儀というのはどうするのか、墓地はどうなっているのかといった質問を受けた。
葬儀のかたちは、喪主が誰になるかにもよるが、特に家族の中で自分一人がキリスト者という場合は、普段から自分の考えや意志を、家族にはっきり伝えておく必要があること、この教会では、お申し出によって、家族の方の葬儀も行っていること。また、葬儀は私たちにとっては、キリスト者であることの最後の証しの場であることもお話した。何でも聞いて下さっていい訳だが、質問を受けた時は、内心びっくりした。それは、彼があまりにも若々しくて、葬儀と結びつかなかったからである。しかし、考えてみると、死というのは必ずしも年齢と関係しない。100パーセントの確率で、しかもそれがいつであるかは、誰にも分からないことである。
今日の箇所は、主イエスと親しい関係にあった三人兄弟の中の、ただ一人の男手であったラザロが死んで、姉のマルタ、マリヤが悲嘆にくれているところである。この11章は、ラザロが重い病にかかっているという知らせが、人を介してイエスのもとに届けられたところから始まっている。この時のイエスのお言葉や態度は、私たちに何か不自然な感じを与える。
「この病気は死ぬほどのものではない。・・・・」とはどういうことか。この言葉は、ラザロが死んだことで、彼の病が治るものでなかったことが分かる、と同時に、主イエスの「死」というものに対するとらえ方が、私たちが「死」に対して抱いているものとは、はっきり違うということが分かる。「死ぬほどのものではない」というのは、直訳すると「死に至るもの」ではない、ということであり、その意味は「死で終わるもの」ではない、ということである。
この後のところに、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。・・・・」というイエスのお言葉が、マルタへの語りとして記されている。主イエスの「甦り」は、私たちの信仰の土台をなすものであり、聖書はイエスの甦りにおいて、永遠のいのちへの世界が開かれたことを私たちに告げている。と同時に、人は肉体の死をもって消滅するだけのものではないことを記している。いずれにしても私たちには見えない世界のことであり、ただ信じて、知ることの出来る世界である。
一昨日の朝日新聞の「天声人語」に、アメリカの哲学者でレオ・バスカーリアという人の書いた「葉っぱのフレディーいのちの旅」という絵本のことが紹介されていた。フレディというのは、大きな木の太い枝に生まれた葉っぱのことである。彼は多くの葉っぱに囲まれながら、はじめはどの葉っぱも同じだと思っていたが、一つとして同じものはないことに気がつく。秋になり、今まで青々と茂っていた葉っぱたちは一気に紅葉し、冷たい風に吹かれて、誰もいなくなってしまう。それは死ぬということだと知って怖くなる。と、大きな葉っぱのダニエルが「変化しないものは、ひとつもないんだよ。変化するって自然なことなんだ。死ぬというのも変わることの一つなんだ・・・・」と言う。フレディは枝を離れ、雪の上で眠りにつく。
次の春、枯れ葉になったフレディは土にとけ込み、木を育てる力になる、というところでこの紹介は終わっている。世の中には、特別な業績をあげた人の名が、長く歴史に残るということはある。しかし、その人の生きていたしるしが残るというのは、そういうことではない。聖書で言えば、その人の生きていたことが、名前と共に神の「いのちの書」に記されていくということである。(ヨハネ黙示録3:5、出エジプト32:32他)人は生きている人の記憶の中だけで生きるのではない。
人が自分の生きていることやその意味をつかむのはやはり、自分が感じるとか納得するというかたちにおいてである。しかし、そうでない世界が厳然として存在しているということを、私たちは忘れてはならない。さっきの「葉っぱのフレディ」の話は、本を読んでいないから分からないが、人が納得する話である。しかし、納得できない世界があることを私たちは覚えなくてはならない。
今日のこの箇所もそうである。イエスは人々に、墓穴をふさいでいた石を取りのけさせ、目を天に向けて祈られた後、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわられた。すると、彼は葬られた時のままの姿で出てきた。そこで、イエスは人々に「彼をほどいてやって、帰らせなさい」と言われた。もしここを、強いて納得するとすれば、私たちの目に触れる肉の体ではなくて、心の体というものからも、私たちを解放しようとしておられる主イエスの働きがあるということである。
主イエスが「ラザロよ出てきなさい」と呼ばわられ、彼が出てきたように、やはり、神の前に出ていくこと、たとえ、どんな姿であろうとも、出ていくということが、私たちには大切である。これは単なる一つの物語ではない。私たちはいつも自分自身の殻から、自分を縛っているものから、神の御心の世界に出ていくことが、繰り返し求められているということを思いたい。そして、自分の人生の意味を、自分自身で納得して積み重ねるのではなくて、自分の姿を見ておられる方の前で、いつも出ていく場所がある、迎えられる場所があるということをしっかり踏まえておきたい。
ラザロが全身に布を巻きつけたまま出ていったように、私たちは自分では気づかずに、あるいは気がついていて、自分を縛っているものを多く内に抱え持っているということを思わなければならない。その上で、自由な者にされていきたく思う。み言葉の中の「新しくつくられた」「自由にされた」という言葉が、どこか掛け物のようなものであってはならない。私たちはいつも「出てきなさい」と呼ばわられる主のお声を聴いて、神の御前に出る時を持つこと、御前から歩き始めることに心を置かねばならない。
そのことがまた、主のお言葉に応えて、墓穴をふさいでいる石を取りのけたり、その人を縛っている布をほどいていくということにもなるのではないか。私たちの内には人を容易に抹殺するとか、傷つけるとかそういうさまざまな、動物と変わらないものがある。しかし、「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、・・・・」(ガラテヤ6:22)とあるように、私たちには御霊によって人を立たせ、癒す力も与えられているのである。