先週は教会員の家族の方が二人亡くなられた。そのお一人は、福岡に住んでおられた西久保兄のお母さんの春重さん。90歳。7日、田隈教会で葬儀が行われた。もう一人は、この7日、満103歳の誕生日を迎えられた城崎はなさんの御長男、恒彦さん。73歳。どちらもクリスチャンであったが、その死が突然であったことがわたしにはショックだった。人には必ず生と死がある。生きている者は、同時に死もかかえている。このことは、何度聞かされても実感を伴わないが、やはり、意識としてもっていることは大切である。
最近はテレビ等で、健康管理とか、食事に関する番組が多くなったようだが、私たちにとって大事なのは、聖書で語られているいのち、肉体のいのちだけではない神によるいのちの問題に思いをはせることである。
特にヨハネによる福音書は、このことについて大きく指し示している。20:31に「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」と記し、一番最後に「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もし、いちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。」(21:25)とある。私たちはこのように広大で深遠な神の歴史の中に招き入れられているということである。
今朝は1:9−13にポイントを置いてお話ししたいと思う。
「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」とある。「すべての人」というのは、全体のことではなくて、一人一人のことである。国籍も性別も世代も年齢も超えて、一人一人すべての人ということである。次に「すべての人を照すまことの光」とある。光は私たちを導くものであると同時に、私たちの心を照らすものでもある。
詩篇18:28に「あなたはわたしのともしびをともし、わが神、主はわたしのやみを照されます。」とある。またミカ7:8に「たといわたしが暗やみの中にすわるとも、主はわが光となられる」とある。光のない状態を闇と言うが、闇が闇として分かるのも光においてである。この光の照らしを受けなければ、私たちは自分の闇に、自分の内にある闇に気がつかないまま、生涯闇の中にいることになる。
主イエスの言葉として、ヨハネ12:46に「わたしは光としてこの世にきた。それは、私を信じる者がやみのうちにとどまらないようになるためである。」とある。ここで「まことの光」とか「彼」という名称で語られているのは、イエス・キリストのことである。「世は彼によってできたのであるが」(10)、「彼は自分のところにきたのに」(11)という言い方は、私たちには分かりにくいところであるが、聖書の一番初めのところ、創世記の一章を開くと、神の語られる言葉によって、世界の創られていく様が描かれている。
併せてこの創造のわざに、御子が共にたずさわっていたことが記されている。コロサイ1:16に「万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。」と記され、ヘブル1:2に「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。」とある。
また、Uコリント8:6cに「万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている」とある。つまり、神は御自分のものとして人を造られ、人は神との関係において生きるものであるということである。これはまた、神とイエス・キリストと私たちの関係をあらわす言葉である。ところが「自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。」と記されている。「ただ神によって生れた」ということは、この世から、この世の事情から生まれたのではないということである。
人は自分で分かるところで物事を判別したり、判断したりしながら生きている者であるが、それがすべてではないことを覚えたい。この10日の朝日新聞に載っていた作家・林 真理子さんの一文に「私が上京してひとり暮らしを始める時、母は言ったものだ。ああも育てたい、こうもしつけたいと思ったけれども、お金も時間もなかったから、まるきりの野放しにしてしまった。何も教えてあげることは出来なかったけれど、ひとつだけ教えてあげる。自分が何も持っていないことを知りなさい。(前後略)」とあった。「自分が何も持っていない」というのは、経験としても、知識としてもということであろう。
以前、礼拝での証しの中で、一人の姉妹が、「自分はCSで教師という奉仕の場を与えられて、いかに自分が何も知らないかを知らされた」と言われたことがある。考えてみると、自分の中には、自分があると思っている程に豊かなものは、内容的にも言葉の面においてもないものである。この自分の貧しさに立つことにおいて、私たちは本当の意味で「知る」という経験を積んでいくのである。イエスは、自分たちは見えると思っているパリサイ人たちに「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネ9:39−41、新共同訳)と語られた。自分は見えるとするところに、私たちの成長を妨げるものがある。
また、9日夜、何げなくつけたTV番組が「NHKスペシャル」で、阪神の野村監督が自分を語っているところだった。「独断は悪、偏見は罪。自分にどんな可能性があるのか、だれも本当には知っていない。初めから決めてかかるのはよくない」という言葉が心に残った。林 真理子さんや野村監督がクリスチャンだということは聞いていない。
しかし、人として与えられた知恵によって、努力を積み重ねながら、長い年月を経て現在に到達したわけである。到達出来た彼は、一角(ひとかど)の人物として評されている。この世的に言えば、彼が今までに身につけてきたようなものを、今私たちが身につけるということは出来ない。しかし、私たちには、求めさえすれば、心を開きさえすれば、誰にでも与えられるかたちで、主が私たちそれぞれに与えたいと願っておられるものがある。そのことをまず、主御自身が願っておられることを信じたい。信じることにおいて私たちは、自分の中に、またこの世の中に、新しい可能性がひそんでいることを見出していくことが出来る。
「血すじによらず、肉の欲によらず」ということは、「ただ神によって生まれる」いのちの約束が示されているということである。今日の話の要点をまとめると次の三つになる。