もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら

31イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。 32また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。 33そこで、彼らはイエスにあった、「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない。どうして、あなたがたに自由を得させるであろうと、言われるのか」。 34イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。 35そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。 36だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。・・・・」
ヨハネによる福音書 8:31-36

先日、福岡に猪城先生御夫妻をお訪ねした。先生の奥さまの親戚筋に当たる寺の住職に、「自分は高僧と言われる方のお話をまだ一度もお聞きしたことはないのですが、仏教の極意というのは、一言で言うとどういうことになりますか」と尋ねられたところ、「それは聴くことです」と答えられたそうである。

それから10日程たった後の朝日新聞(1月28日)に、最近有名になった千代大海の大関昇進の記事が大きく載っていた。そこに、彼の師匠の九重親方(元横綱千代の富士)が、千代大海のことについて語った言葉があって、その最初のところに、「力士にとって一番大事なのは『聞く耳をもつ』ということである。・・・・千代大海の良いところは、聞く耳をもっていることだ。」とあった。こういう言葉が印象に深く残るのは、自己主張、自己表現ばかりが目について、虚心に耳を傾ける、聴くということが余りにも少なくなってきているということではないか。イエス・キリストの弟子とされた人たちがどんな人であったかということについて、聖書はあまり記してはいない。

ペテロという名を頂いたシモンとその兄弟アンデレ、また、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ。彼らはガリラヤ湖で魚をとる漁師だった。「わたしについてきなさい」という、主イエスの招きに応えて従った話はよく知られている。この他、最初は熱心なユダヤ教徒としてキリスト者を迫害し、後に主イエスの福音を伝える伝道者として、新約聖書にその名を残すことになったパウロのことはよく知らされているが、それ以外の、聖書にその名を留めない、しかし、イエス・キリストによって、確かにその名を天に記されている無数の人たちは、どのようにしてイエスの弟子と呼ばれるようになったのか。ただ、イエス・キリストに出会い、その言葉に聴き、そこに留まって、それぞれの時を生きたということである。パウロの言葉に、「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ローマ10:17)とある。

31節の「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら・・・・」は、イエスが自分を信じたユダヤ人たちに語られた言葉である。「信じた」とあるが、この後に続く主イエスとの会話を見るかぎり、この「信じた」ということも、何か一時的に、イエスの言葉に感心して同意した。その時にそういうことがあったという程度のことであったことが分かる。主はそのことを見抜かれた上で、「もしわたしの言葉にとどまっておるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子なのである・・・・」という言葉を語られた。

ここではっきりとイエス・キリストの「ほんとうの弟子」とはどういう人を言うのかが示されている。つまり、それはイエス・キリストの言葉のうちにとどまる人、そこから離れない人のことである。「とどまる」は、特にヨハネ福音書、ヨハネ第一の手紙に出てくる大切な言葉である。37節との関連で言うと、キリストの言葉のうちにとどまるということは、キリストの言葉がその人のうちに根をおろすということ、その人の中でいのちと力をもつということである。

更に、「根をおろす」という意味は「場所を得る」、「広げる」ということである。パウロがコリントの教会に宛てた手紙の中に、「どうか、わたしたちに心を開いてほしい」(Uコリント7:2)という一節があるが、「根をおろす」と同じ言葉が用いられている。ここでは、心に場所をあけて、相手を受け入れるという意味になる。

「根をおろす」ということに関連して、コロサイ2:7に「キリストに根ざして」という言葉がある。木はその根に支えられて立ち、いのちを保っているが、人は何を根とし、何において生きるのか、足場をどこに置いているのか、ということは、自分が生きていること、日々のこととして考えねばならない。私たちはこの世の価値観や、今までの生活慣習の中にいて、イエスの教えや恵みを取り込むのではなく、既に主のものとされているというところにまず自分を置くことが大切である。

「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった」(コロサイ1:13)のだから、そこに自分の心、存在の意味を移して、そこから物事を考えるということ、イエス・キリストを知ったということが、生活の一部としてでなく、それを中心として生活全体が成り立っているということ、そこからはずれないこと、それが「キリストに根ざす」ということである。「とどまる」というと、私たちは何か静止した状態をイメージするが、これは「つながる」ということである。つながれることによって、いのちの養いと力を頂くということである。

以前、特別集会の講師としてお迎えした大上先生が、「自分には劇的な回心はないけれど、日々少しずつ変えられ、成長していっていると思うし、そのことを感謝している」と言われた言葉が心に残っている。

私たちは、自分のものとして自由に使うお金とか時間に関しては、あまり意識しないというか、何の抵抗も感じない。しかし、それが自分に少しでも努力を要することになると、大変なことに感じてしまうところがある。考えてみると、献げることにしても、聖書を読むことにしても、礼拝を守ることにしても、これはもともと私たちの状況に支配されるものではなく、やはり、個々の意識と心の重心の置き方によるところが大きい。

これからの日々の中で、自分が主のものであることをどれだけ目指していけるか、が問われている。毎日の生活の中で、主の領域(と言えるところ)を少しでも拡げていく努力をお互いにしていきたく思う。誰でも自分の目標のためには、節制や努力をする。ただ「信じる」とか「信じている」というだけでは、信仰は筋にも力にもならない。

ある婦人が「あまりいろんなことがありすぎて、教会のことはどうでもよくなってきた」と言われた。信仰を自分の一つの部分として持つとこのようになる。イエス・キリストを自分の中心に置く方法をお互いに見つけて、自分の中に、そして生活の中に主の領域を少しでも拡げることに心を使っていきたいと思う。

1999年2月14日(日)主日礼拝宣教要旨

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