彼に根ざして

1わたしが、あなたがたとラオデキヤにいる人たちのため、また、直接にはまだ会ったことのない人々のために、どんなに苦闘しているか、わかってもらいたい。 2それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。 3キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。 4わたしたちがこう言うのは、あなたがたが、だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである。 5たとい、わたしは肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたと一緒にいて、あなたがたの秩序正しい様子とキリストに対するあなたがたの強固な信仰とを見て、喜んでいる。 6このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのだから、彼にあって歩きなさい。 7また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。
コロサイ人への手紙 2:1-7

今年も、新年度を前にして「スチュアードシップ月間」を迎えることになった。この言葉は、ある方々にはなじみがないかもしれない。ただ、スチュアーデスという言葉を聞くと、飛行機で、乗客の世話をする女性たちの姿を容易に想像する。英語のスチュアードという言葉には、旅客係、(催し物などの)世話役の他に、執事、家令(雇われて他人の家、土地などを管理している人)という意味がある。・・・・シップという接尾辞は、仕える人、管理を委ねられた人の職務や身分を指すこともあるが、一般的にはリーダシップ、スポーツマンシップというように、それにふさわしい状態、精神をあらわす。

ところで、私たちにとってスチュアードシップ(正しくは、クリスチャンスチュアードシップ)とは何かということになるが、それは、特別なものを身につけるということではない。主が用いられやすいように、常に自らを主のものとして明け渡していくこと、身軽くされて行くこと、主のものであるということが自然になっていくこと、それを目指しての、そういう意味ではまさに生涯をかけての証しであり、学びである。スチュアードのイメージ、イコール私たちの描く、信徒像と言ってよい。

今朝は「スチュアードシップ月間」の第一主日として、コロサイ人への手紙の中から語らせていただく。この手紙は、パウロという偉大な伝道者が、コロサイ教会の人たちに宛ててローマの獄中から書き送ったものである。他の手紙にくらべて、わずか4章という短いものであるが、コロサイ教会の人たちに対するパウロの思いが、一際強く感じられる手紙である。恩師の柏井忠夫先生が「自分の牧師はパウロだと思っている」と語られたことがあったが、「「コロサイ人への手紙」はキリスト教の要点が書かれていて、繰り返し読むのに非常にいい」と言われた。また、佐竹 明先生も同じようなことを言っておられた。

今朝は特に2:6〜7にポイントを置いて語らせていただく。「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい」(6)とパウロは勧める。「歩く」という言い方は、ユダヤ的な表現で「生活をする」ことを言い、1:10ではそのまま「生活をして」と訳されている。また、「生活をする」というところを「歩く」と表現されている箇所は、聖書の中にいくつも見られる。

旧約では「エノクは神と共に歩み」(創世記5:24)「ノアは神とともに歩んだ」(同6:9)等、また新約では、「わたしたちは・・・・信仰によって歩いているのである」(Uコリント5:7)、「召されたその召しにふさわしく歩き」(エペソ4:1)、「愛のうちを歩きなさい」(同5:2)、「光の子らしく歩きなさい」(同5:8)。また「あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、今の時を生かして用いなさい。」(同5:15、16)等々である。スチュアードシップとは、心で大切にしていることをどのように具体化し、生活化していくかという日々の生き方、歩き方のことである。

パウロはここで、キリストにあって生きることがどういうことかを、次の言葉で語っている。「彼に根ざして」とはどういうことか。私たちは生きている限りどこかに根を降ろさねばならない。根なし草と言っても、それは言葉の上だけのことであって、どこかで養分なるものはとっているし、またそうでないとすぐにも立ち枯れてしまう。根というのは、私たちにとって、ある意味で自分である。

要はどこで、その養分をとっていくかである。それは沢山ある。キリスト者であっても、聖書だけ読んでいればいいとも言えない。よい音楽を聴き、本を読み、講演を聴き、友人等多くの人々にふれるという、そうした交わりも必要ではある。ただ、自分はどこから養分をとっているか。その中心をどこに置いているか。何を根として立っているかということである。

聖書の語る信仰というのは、自分の中に、信仰というかたちで何かを持ち込むこと、身につけることではなく、まさにキリストに根ざすことを言う。根ざすというギリシャ語は、土の中にしっかりと根をおろして、しかもそれが常に変わらない状態にあることを言う。

次に「彼にあって建てられ」とある。建物を建てる時には、強固な土台の上で作業をするように、キリストを土台としてということである。土台とするということは、キリストという土台にしっかりと結びついて、ということである。「そして教えられたように、信仰が確立されて」とある。こういう言い方がわざわざされているのは、現実にそれを妨げ、突き崩そうとする力が働いているということである。

そして、その力は必ずしも教会の外だけで働くのではない。私たち自身のことを考えてみても、信仰を告白してから後の年月よりも、それ以前の年月の方が長いという場合もある。また、知らない間に身につけてきたものもたくさんある。時には、そうしたものの方が現実に力をもってくるということも起こる。大体私たちは、自分を中心に考える傾向を持っている。自分の考えていることが正しくて、そうなることが普通だとか自然だと思っている。しかし現実は、当然のことながら、自分の意にそわないことの方が多いわけだから、内に不平・不満をため込むかたちになって、本当に平和な関係にはなり得ない。

しかし、そのような時に、私たちは自分がどのような者であるかを思ってみたい。私たちは、既にキリストに目をとめられた者、愛されている者、1:13の言葉で言えば、「やみの力から救い出され、御子の支配下に移された者」である。私たちのために、主イエス・キリストがどのように御自身を用いて下さったか、生きられたかを思う時、私たちは本当の意味での感謝ということを教えられる。

最後に「あふれるばかり感謝しなさい」とある。これは直訳すると「感謝にあふれなさい」ということである。もう一人の恩師・河野博範先生から「アーメンが先だ」と教えられた。この言葉は感謝がそのアーメンに重なって、先から臨んでいることを告げているように思われる。

本当の意味で、キリストに根ざし、キリストのうちに建てられていくことを、私たちの今年度の目標にしたい。キリストに結ばれているということは、私たちがいつも新しい生き方に向かって歩むように約束され、またうながされているということである。

1999年2月7日(日)スチュアードシップ月間 第一主日礼拝宣教要旨

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