私たちには、生きているということと同じ確かさで、いつかは死を迎えるということと、主の再臨というかたちで、この世にも終わりの時があるということを知らされているが、恐らくその日は、特別なこととしてではなくて、案外自然なかたちで、しかも突然のように臨むのではないかという思いがする。
先程、イザヤ書52章7−12節を読んでいただいたが、これは約半世紀にわたって、バビロンに捕らわれていたイスラエルの民が、新しく台頭してきたペルシャ王クロスの計いで、帰国を許されることになったその時の民の喜びを歌ったものである。当時、情報の伝達手段は専ら足であった。
伝令が急いで走り寄り、大声で叫び伝え、「見張びと」が耳にした「よきおとずれ」の内容は、平和と救いの到来であった。パウロは、この言葉を引用して、イエス・キリストにおいて起こった出来事を担いつかわされる者の光栄と、その伝達の必要かつ緊急性を次の様に語っている。「つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。『ああ麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は』と書いてあるとおりである。しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っている。したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」(ローマ10:15−17)
今朝は、特に11、12節を念頭にお話したいと思うが、ここには「去れよ、去れよ、そこを出て、汚れた物にさわるな。その中を出よ、主の器をになう者よ、おのれを清く保て」と6つの言葉が命令形で語られている。「そこを出よ」、「その中から出よ」とある。「そこ」は、彼らが長い間捕らわれていたバビロンである。捕らわれからの解放と帰国の喜びが高らかに語られる(7−10)中で、「去れよ、去れよ」(離れよ)とか、「その中を出よ」という言葉が繰り返されているのは、異教の地とは言え、すでに馴れ親しんだバビロンから、今や離れ難い気持ちをもっていた人たちが少なからずいたということである。
「馴れ」は、人の考え方や生き方を、自分でも分からないうちに変えてしまうものである。エルサレムから強制的に連れてこられた時は、一日も早い帰国を願っていたのに、いざ帰国が許され、そのことが告げられているのに、喜ぶどころか腰を上げるのに躊躇している人たちがいる。「汚れた物にさわるな」とあるが「汚れたもの」というのは、「きたないもの」ということではない。むしろこれは、神が喜ばれなくて、自分に影響を及ぼすものという意味で、それに触れるな、近づくなということである。
私たちの毎日の生活は、同じことの繰り返しの様であるが、その行動から言うと、自覚しているかいないかは別として、常に、するかしないか、行くか行かないか、聞くか聞かないかなど、選び取りの連続とも言える。そして、その選び取りの基準はその人の価値観に関係する。声楽家であれば、喉を痛めないために辛いものは食べないとか、体調に気を配って節制する。運動の選手でも同じである。
次に「主の器をになう者よ、おのれを清く保て」とある。「主の器をになう者」というのは、直接には、かってバビロンに奪い去られていた神殿で用いられる器を担い運ぶ者(祭司)ということであるが、言葉を替えて言えば、主によって、ある目的のために立てられた者という意味である。私たちのことで言えば、イエス・キリストによって、罪を赦され、そのみわざを担う者とされたということである。次に「あなたがたは急いで出るに及ばない、また、とんで行くにも及ばない」とある。こういう言葉がわざわざ語られていることは、私たちの行動が、周りの状況や自分の気持ちに左右されやすいということである。
私たちは、あわてなくてもいい時にあわてたり、逆に、急がなくてはいけない時にぐずぐずしてしまう者である。急いで出るにも、とんで行くにも及ばない理由として「主はあなたがたの前に行き、イスラエルの神はあなたがたのしんがりとなられるからだ」とある。荒野を旅するイスラエルの民を、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導かれた主は、ご自分に従う者の前に立ち、後にあってその歩みを共にして下さるということである。そのみ思いと信頼の中で、はじめて、私たちの小さな歩みも確かなものとされていく。
大分前のことになるが、福岡に猪城先生をお訪ねした折、「人間には死ぬことが与えられているのだから、せめて生きている間は、しっかり頑張りたいものだ。多くの人は死はいつまでもこないかのように、人が死ぬことを事故死のように考えている」と言われた。私たちはいつまでも生き続けるのではない。だからしたいことをして時を過ごすのではなく、死もまた与えられる時として、備えられたいのちの時を、最善を尽くして、精一杯生きることに心を向けることが大切である。
私たちの生きることの、生きていくことの意味は、主に覚えられているということにある。この何者でもない者が、かけがえのない者として生きることを許されているということである。新しく迎える一年も、主が私たちの先に立たれ、またしんがりとなって下さっていることに信頼して、日々を共に歩ませていただきたく思う。