わたしに答えよ

3「わが民よ、わたしはあなたに何をなしたか、何によってあなたを疲れさせたか、わたしに答えよ。 4わたしはエジプトの国からあなたを導きのぼり、奴隷の家からあなたをあがない出し、モーセ、アロン及びミリアムをつかわして、あなたに先だたせた。 5わが民よ、モアブの王バラクがたくらんだ事、ベオルの子バラクが彼に答えた事、シッテムからギルガルに至るまでに起った事どもを思い起せ。そうすれば、あなたは主の正義のみわざを知るであろう」。 8人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。
ミカ書 6:3-5、8

先日、テレビのチャンネルから「ときめきの季節が来ました。あなたはクリスマスを誰と過ごしますか。」という言葉が耳に入った。何故ときめきなのか、何故クリスマスが楽しみなのかを考えると、やはり、そこには贈り物というかたちにしろ、愛の表現があるということではないか。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」(ヨハネ3:16)の言葉は、深い神の決断と悲しみと、御計画があることを示している。そのことを思う時に、今日の聖書の箇所に「わたしに答えよ」という言葉があるが、私たちに一番求められていることは、神のみ心に応えていくことである。どのようなかたちの応え方を神が望んでおられるかということである。先月の17日、金城学院大学で、樋口和彦氏(ユングの研究家で現在、京都文教大学長の「イメージと癒しーー傷ついた癒し人の像をめぐってーー」という題の講演があった。その中で、氏の経験として次のようなことが語られた。

アメリカのある教会で、確かイースターの劇をした時のこと、いつも来ている子どものためには用意が出来ていたが、突然来た子どもたちのためには何の役もなかった。そこで、その時来た子どもたちに、十字架にかかったイエスを罵(ののし)る役をやらせた。十字架のイエスに向かって、どんなに汚い言葉でもいいから、罵倒するようにという指示だけを与えた。その後で、彼らが何を感じたかというと、出来るかぎりの悪態を考えて、十字架にかかっているイエスを罵倒した子どもたちが、イエスは自分のために十字架にかかったということを実感したということである。このことから、今の時代に一番欠けているのは、人の思いに対する想像力ではないかということを考えた。クリスマスというと、明るいネオンや飾りに心を奪われがちであるが、それらは人が造り出した楽しみであって、やはり、クリスマスには「感謝」が、主に対する一番のささげもののように思う。

ところで、私たちは主に対する感謝をどのようなかたちで表しているのだろうか。「献金のことになると自由にならなくなる」という言葉も聞くが、ちょうど主イエスに差し出された「五つのパンと二匹の魚」が主の手によって多くの人の必要を充たしたように(ヨハネ6:1〜13)、ただ主に用いられることを願って献げられることが大切である。その時「献げるもの」に私は切れて、私は「献げるもの」から自由になるのである。

今日の宣教題をテキストの3節からとって「わたしに答えよ」とした。これは、神の関わり、語りに対して、どう応えているかということについての回答を求められているということでもある。

ここで、まず私たちの心にとまるのは「わたしはあなたに何をなしたか、何によってあなたを疲れさせたか」(3)という言葉である。私たちは「疲れ」という言葉に非常に共感を覚える。今は、小さい子どもからお年寄りに至るまで、多くの人が疲れを覚えている。毎日の生活に疲れているということもあるが、決してそれだけではない。対人関係からくる疲れもある。相手が自分の思うようにならないとか、相手の行動や仕草が気に障るとか、人と人が共に生きていく上で感じる事柄が疲れの原因になっていることが多い。私たちはどのように相手に対していくかということを、耐えることと共に、神の愛から考えたいと思う。

ところで、イスラエルの民の歴史が「聖書」というかたちの中で、私たちの前に置かれていることは、考えてみると有り難いことである。ミカ書の著者ミカは、前8世紀のユダ王国で活躍した預言者であるが、その時代は、イスラエル王国がアッシリヤ帝国によって滅ぼされた時期(BC722)に一部重なる。

約束の地カナンに建てられ、ダビデによって統一されたヘブル王国は、その初めから海と砂漠に加え、アッシリヤ、バビロン、エジプトと言った大国に取り囲まれていた。大国に囲まれた小国という状況の中で、彼らを支え、周りの国々に対して力をもっていたのは、自分たちは神に選ばれた民であり、神が共におられるという信仰であった。

唯一のまことの神の支配を信じるその信仰の中で、立ち直ったり勢いを盛り返したりしたが、しかしまた、預言者の言葉が語られても、自分の腹を神とする(ピリピ3:19)生き方の中で、神の民としての本来の姿を失ってしまった。預言者の忠告に従うよりも、その時々の王の政治的な判断で他国と手を組み、大国に反乱を企てては失敗し、かと思うと大国に貢物(みつぎもの) をすることで何とか保障をつかもうとした。

たとえそれが結果的に力にならなかったとしても、力になると思って自分は動いたということで納得が出来る。それにくらべて神の護り・助けというのは、目に見える確約としてはつかみ難い。だから主との関係に基点を置いて身の処し方を考えるというよりも、それはそれとして、周りのことに気を配り、そこで何とか安心や保障をつかもうとする。

信仰というのは、私の中に、私の自由になる方として主を持ち込むことではなく、主の関わり、その御支配の中にこの「私」を置いていくことである。しかし、このことがなかなか分からない。自分で分かろうとするから分からないとも言える。そのために、イスラエルの民にしても、私たちにしても、同じようなことを何度も繰り返してしまう。

分裂後のイスラエルにしても、ユダにしても、このような繰り返しの中で、最後は力によって滅ぼされてしまった。イスラエルという小さな群れが、世界の中から選ばれたことの意味は、人の知恵や力に依って立つのではなく、神との関係にある民としての生き方の中で、目に見えない神を証ししていくことにあった。このイスラエルの民がどのように歩んだかを知ることは、私たちにとっては大切なことである。

先にも少し触れたが、ミカが生きた時代の、特にサマリヤやエルサレムといった大都市は、悪の巣窟のように腐敗しきっていた(1:5)。1〜3章にはその様子が記されている。6章はそうした状態を法廷の場に持ち込み、変わることのない山や大地を証人に見立てて、原告である神がイスラエルの民を告発している場面である。

しかし、また、「わが民よ」(3、5)という呼びかけの中に、自分の民として選びいつくしんできた者たちを、自分で告発しながらなお、立ち返りを求めておられる神の心を覚えさせられる。と同時に、「あなたがたがエジプトの地で奴隷であった時、あなたがたを助け出して、この約束の地へと導き、連れてきたのはこのわたしではなかったか」と主は言われる。

それに対して「わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか」とある。この言葉は「何をもって」、「どれだけのものをもって」あなたの怒りを鎮めることが出来ようか、という意味である。彼らにとって「献げる」ということは、もはや感謝の心を表す行為ではなくて、単なる義務感のようなものになっていた。

ここから教えられる大事なことは、私たちが何かをすることの前に、主が私たちのために何をして下さったかを覚えることである。そういう意味で、主を喜び、感謝するということが、私たちにとって先ず第一のことになる。私たちのことを考えても、何か自分の内にあるものを外に表そうとする時、それは必然的に一つの形をとる。だからそういう意味で形をとることが悪いのではなく、その形を裏付けるものが失われているということが問題なのである。

8節に、預言者の言葉として、「人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた」とある。そして、主が求めておられることとして、3つのことが記されている。

  • (1)「ただ公義をおこない・・・・」は、神の正しさに基づいてということであり、自分の好みや利益、その時代の主義、思想に左右されないということである。当時のユダ王国では、この公義が最も軽んじられていた。
  • (2)「いつくしみを表し・・・・」の、「いつくしみ」には真実、誠実の意もあるが、いずれも、神が民に示された関わりを言うのであって、それに基づいて生きよということである。
  • (3)「へりくだって」は、何者でもない者として、創られた者としてという意味である。

私たちはどんなにつらいことがあっても、また、不安にとらわれることがあっても、なおそこに共にいて下さる神を覚え、その愛に応えていく者でありたいと思う。

1998年12月13日(日)主日礼拝宣教要旨

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