6日金曜日の夜の9時半から、NHKテレビで、「スピード」という名の(女子中学生4人)グループの演奏旅行を取材した番組が放映された。何が若者の心をとらえるのかというナレーターの言葉もあったが、確か、最後の演奏会の会場となった東京ドームには、こんなにも中高生が集まるのかと思わせる程の行列が、テレビの画面に映っていた。他のことで気がせいていたこともあって、見ようと思ったわりには、ちらちらとしか見れなかったが、「自分に負けないで、もう一度夢を見よう」という歌詞が、今も心に残っている。その番組の中で、登校拒否をしている女子中学生が、「涙の数ほど、いくつもの夢がある」という歌詞に涙を流し、「この言葉に支えられ、みんなに支えられて、これから学校に行きます」と目を輝かしながら語っている場面が一つ印象に残った。
そして、「自分に負けないで」というのは、「現実に負けないで」ということなのか、「もう一度夢を見よう」とあったその夢の対象とは何なのだろうと思ったりした。尾崎 豊の場合と比べて印象は違うが、自分の感情をそのまま言葉にしているところが共通して、特に若い同世代の共感を呼ぶ力になっているのではないか。しかし、この歌詞は、確かに年代を越えて、私たちに訴えるものを持っている。「自分に負けないで、もう一度夢を見よう」という言葉は、今の現実が決して楽なものではないことを表している。
聖書に戻ると、今日の箇所は、戦いに破れ、バビロンに捕らえ移されたユダの民に告げられたエレミヤの預言である。「バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る。」という言葉を、ユダの人々は、どのような気持ちで聞いたのだろうか。神の民として、エルサレムの神殿と共に生きてきた彼らにとって、国が亡び、神殿が破壊されるということは、文字通り、神の民としての生活の基盤を根底から失うことであった。それに加え、異国の地に捕らえ移されるということは、耐え難く、屈辱的なことであったに違いない。
それは、私たちの想像を絶するような出来事であったと思われる。自分たちは、もはや、神から見放されたのではないかと、人々は考えた。その彼らに伝えられたのが、先ほどは読まなかったが5〜8節の言葉である。「あなたがたは家を建てて、それに住み、・・・・」(5)、「妻をめとって、むすこ娘を産み・・・・」(6)「その町の平安を求めて、主に祈り」(7)「あなたがたのうちにいる預言者と占い師に惑わされてはならない。」(8)ということである。これは、すぐにでも帰れるという安易な偽りの希望に惑わされないで、そこがたとえ異国(教)の地であっても、置かれたそのところで、時が来るまで、落ち着いて生活をするようにと言う勧めである。と同時にこれは、エルサレムから遠く離れたバビロンもまた、神の御支配のもとにあるということである。「バビロンで七十年が満ちるなら・・・・」というのは、とにかく落ち着いて過ごさなければならない時、(それは決して無期限ということではない)ということである。実際にはアッシリヤの台頭によって70年は50年になった。
そして、解放の約束と共に、11節に「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。」とある。この言葉は、人には分からない神の主権、神の領域があるということを示している。そして、今、最も忘れられているのは、このことではないか、という思いがする。
昨日、近くの「もりもり弁当」の若主人、坂崎さんと梅田さんの結婚式が行われた。結婚式というと、毎回、いつも新しく、胸がつまるような感動を覚えるのであるが、それは、新しい家庭が始まるという思いに充たされるからである。しかし、何事でも、同じ状態を保つということはむつかしい。必ず、中だるみというか、言ってみれば平凡な日常の繰り返しの中で、失われていくものがある。たとえ、ピラミッドのように、積み重ねられて行く結果が目に見える作業であっても、人には目先のことしか見えなくなるという現実もある。愛にも信仰にも、日常の繰り返しの中で色あせ、落ちていくものがある。
もし、私たちに、日々新しくということがあるとしたら、それは、自分の生き様を見守っていて下さる主に向かって、自分の心を新鮮にしていくことではないか。「もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたに会うと主は言われる」(13b-14a)とある。「一心に」というのは、原語では、「すべての心で」ということである。新共同訳、新改訳では「心を尽くして」となっている。言葉としてはともかく、実際の生き方として考えるとなかなかむつかしい。それは、真実な生き方と同様、継続がむつかしいということである。
しかし、私たちが、既に神の領域に移されている!(コロサイ1:13「神は、私たちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった」)神の側からの関係が常に先にあることを思い、望み見るならば、それは可能となっていく。
み言葉に養われ、み心を求め、神の世界に思いを馳せる領域を常に持ち、日々を歩んでいくならば、私たちの人生のコースは、広大な神の領域を歩くものとなるのではないか。「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている」と主は言われる。神の世界に夢を抱き、歩んでいきたいと思う。