あなたはくむ物を持っておられないのに

5そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、 6そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の12時ごろであった。 7ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。 8弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。 9すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。 10イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、「あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。 11女はイエスに言った、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。 12あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。 13イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 14しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。
ヨハネによる福音書 4:5-14

主イエスが弟子たちと南のユダヤから北のガリラヤに行かれる途中、サマリヤを通過されることになった。ユダヤとあるだけで、どこから出発されたのか分からないが、エルサレムからだと約55キロの道程(みちのり)である。旅の疲れを覚えられたイエスが、「ヤコブの井戸」として知られた水くみ場のそばで、体を休めておられると、そこにひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。昼の12時ごろであったと記されている。主イエスは彼女に水を求められた。すると、彼女は驚いて「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか。」と尋ねている。

その理由として、「ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである」とだけ記されている。同じユダヤ人でありながら、どうしてこういうことになったのか。ダビデによって統一されたイスラエル王国は、その子ソロモンの死後、北と南に分裂し、北は(B,C,722)建国200年余りでアッシリヤに亡ぼされた。その時の都がサマリヤである。アッシリヤ王サルゴンは、サマリヤの住民を捕虜として自国に連れ去り、その後に、自分の支配する5つの異なった民族を移す政策をとった。

そのことによってサマリヤは、宗教的にも、民族的にもさまざまなものが入り混じることになった。純血を重んじるユダヤ人たちのサマリヤ人への蔑視と、彼らのユダヤ人に対する反感はこうしたことから始まった。ただ交際していなかったというだけでなく、蔑視された側の意地というか、憤りもあって、その対立・反目は相当に深刻だった。南のユダヤから、北のガリラヤに行くのに、一般のユダヤ人たちは、わざわざ遠回りしてでもサマリヤを避けた。しかし、イエスはサマリヤを通る道を選ばれた。

そして、ヤコブの井戸のそばで、サマリヤの女と形容されているこの一人の女性との会話が始まったのである。ここでは、まずイエスの方から彼女に水を求めておられる。そして、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに・・・・・」と不思議がる彼女に対して、主は「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」と応えておられる。「神の賜物」とは、主イエス・キリストにおいて備えられた永遠のいのちのことである。(ローマ6:23)

しかし、ここでは、まだそのことが彼女に理解されていない。「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。・・・・」(11〜12)

主イエスがここで語っておられることと、サマリヤの女が言っていることの間には、明らかなくい違いがある。しかし、このくい違いは、聖書の中だけでなく、今日もある。まさにこちらから願い出て、生ける水を頂くべきその方に、「あなたはくむ物を持っておられないのに、・・・・」と、こちらの判断で対してしまう。ここで彼女の言う「くむ物」とは、具体的に目に見える、自分でも分かる確かさのことである。イエス・キリストを知らない人からは、何故、現実に見ることも、手にすることも出来ない、(そういう意味で)力にならない「信仰」に、という問いかけはいつもある。

人が思いがけない危機に直面した場合、与えられた信仰で力を発揮するか、あるいは全くそれが力として働かないか、そのどちらかである。明らかにいつの時代にも問われる問いが、この「あなたはくむ物を持っておられないのに」という言葉で象徴されている。それに対する主イエスの言葉も、神の賜物を語るという意味では象徴的である。

まさにそれは、サマリヤの女にとってと同様に、見えないもの、つかめないものである。「あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」と問う彼女に対して、主イエスは、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(13〜14)と応えておられる。

これが「信仰とは一体何になるのか」という問いに対する答えである。主は、わたしの与える水があなたの中で泉となると言っておられる。泉となるとは、主との関係を表している。み言葉が私たちの中に届いた時、そこは泉となっていくのである。そのように神は私たちを創られたのである。私たちはそれに応えるものとして備えられている。

サマリヤの女が、主イエスに「あなたはくむ物を持っておられないのに」と言ったように、神との関係ということについて、それが一体どういうことだという問いは、世の中に絶えず横たわっている。ある意味でそれは、創世記(3章)でへびが女に「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」(1)という言い方で、彼女の心を動かしたように、本当にそういう泉が、永遠の命に至る水が与えられるのか、与えられてそれがどういう意味を持つのか、ということに対する問いかけもまた、私たちの現実の生活の中にある。

そうした中で、私たちは、とにかくみ言葉を受けたのである。まさに神の言葉が、人の必要をはっきりさせて下さったということである。言葉を替えて言えば、人は神との関係なしに、生きる意味とか平安は、自分自身に対しても持ち得ないということである。ただそのことを、人生のどの時点で自覚するかということである。たとえ自覚しても、その思いをまぎらわしてしまうもの(こと)が、この世には多くある。

だから、どんな言葉のかけらでもいい、神が存在することを感じたら、むしろそのことを大切にしなくてはいけない。それはある意味で、人としての義務でもある。前に、私たちの人生は、長距離レースのようなものだと言った。この機会を通して、くむ物でくめる水ではなくて、神から頂いて、自分の内側から沸き起こるものを求める人になっていただきたい。

1998年10月11日(日)主日礼拝宣教要旨

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