15日は「敬老の日」に当たる。「敬老」とはどういう意味か。「老いを敬う」と書くが、様々な経験を重ねながら、長い年月を生きてこられたわけだから、それだけでも敬うに足りると思うが、本当に「敬老」ということが一日だけのことでなくて、十分に行き渡っているのだろうか。よく「人生の四季」という言葉で、人の生涯が、幼児期・青年期・壮年期・老年期と分けて語られるが、聖書には、人の生涯を区分したかたちで考えるということはない。
まず神との関係ということが先にあって、その上で年代やその特徴が語られる。いくつかの例をあげてみると、「老いた者には知恵があり、命の長い者には悟りがある。」(ヨブ記12:12)、「しらがは栄えの冠である、正しく生きることによってそれが得られる。」(箴言16:31)「若い人の栄えはその力、老人の美しさはそのしらがである。」(同20:29)
「神よ、わたしが年老いて、しらがとなるとも、あなたの力をきたらんとするすべての代に宣べ伝えるまで、わたしを見捨てないで下さい。」(詩篇71:18)。「彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、主の正しいことを示すでしょう。」(同92:14−15)等々と言われる程、年老いることは貴重なことと考えられていた。その理由の一つに、神の関わりの中に生きてきたということ、つまり、神を中心とした生き方の中に、「老いを敬う」という考え方が、育ったのではないか。やはり、人が敬うとか、大切にしてくれるということ以前に、神がこの私の生き方を省み、祝して下さるというところをしっかりつかむことが、大切なことである。イザヤ書46章に「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」(4)とある。
亡くなられてからもう何年にもなるが、この教会に、村井ゆきのさんという、小柄な老婦人がおられた。みんなに親しまれ、それでいて一目置かれていた方で、各務ケ原の息子さんのところに移られ、岐阜教会に転籍されたが、皆さんにお会いしたいと言って、時折こちらの礼拝に出ておられた。ある時、この村井さんが、「私はその人のおばあちゃんでもないのに、おばあちゃんと言われるのは嫌だ。だから、自分はどんな年寄りの人に対しても、名前が分かっている時には、名前で呼ぶことにしている。」と言われたことがある。考えてみると、「おばあちゃん」という呼び方は、まさに身内の中だけで許されることであって、呼ばれる身になると、やはり嫌なものだろうと思う。
そのことと併せて、私たちは見掛けや年のことで、自分の心まで老(ふ)け込ませないように、パウロが、「たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」(Uコリント4:16)と言っているように、信仰において神から与えられる若さの領域を拡げていきたいし、むしろ、円熟というかたちでもっていきたいと思う。それに、名前というのは単なる記号ではなくて、その人の、人としての尊厳を示すものである。誰でも自分の名前程、音として心地よいものはないということを聞いたことがあるが、確かにそうである。自分の名前を呼ばれると、やはり、心の中で反応が起こる。
聖書に「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。」(イザヤ43:1)「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。」(同45:4)という言葉がある。主なる神は私たち一人一人を、その名で呼んで下さるということである。しかも、神は私たち一人一人をいくつになっても、御自身の子として取り扱って下さる、私たち一人一人の「アバ、父」として、いてくださるということである。
ここは「律法」が私たちにとって何であるかを、パウロが語っているところであるが、彼は3章23節からのところで、「律法」は(イエス・キリストの)信仰が現れる(原語は、外から「来る・到来する」)までの私たちの監視役(23)、また、キリストに向かわせる養育係(24)となったことを語っている。
今日のところ(4章)では、相続人が子供である間は、父親の定めた時期まで、管理人や後見人の監督の下に置かれていた当時の慣習を引き合いに出して、「それと同じく、わたしたちも子供であった時には、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた者であった。」(3)と、過去形で、イエス・キリストを知らなかった時代のことを書いている。「この世のもろもろの霊力の下に縛られて」という状況は、さまざまなかたちで、今も根強くある。そして多くの人たちはこの「縛り」から、なかなか自由になれないでいる。見るべきものを見ていないと、私たちは容易に、何にでもとらわれる。とらわれていることが分かればいいが、そのことに気がつかないということもある。
私たちにとって大切なことは、神がイエス・キリストにおいて、私たちに「子たる身分」をさずけて下さっているということである。「このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。」(6)とある。「アバ」(アッバ)の意味について、以前、佐竹 明先生が詳しくお話しして下さったことがあるが、「アッバ」はアラム語で「お父さん」の意。幼い子が、身近にいる父親に向かって呼びかける言葉である。遠くにではなく、また、たまにしか会わないという関係でなく、常に身近な存在として、父親はいつも側近くにいた。
今の父親は、単身赴任で家にいないとか、いても朝は早く、夜は遅い。休みの日はゴルフか何かで出かけていて、いつも「父親不在」とか、「ウチは母子家庭だ」というところが多い。「アッバ」は、父親の生活も仕事の様子も、身近に触れることが出来た当時の、幼い子の父親に対する呼びかけの言葉であった。もともと「アッバ」だけで用いられていたが、ギリシャ語を使っていたユダヤ人にも分かるようにということから、ギリシャ語の「ホ・パテール」(お父さん)がついて、「アバ・父」として残った。神をこのように「アッバ」(お父さん)という呼び方で呼ばれたのは、主イエスが始めてである。最後の晩餐の後、十字架の死を前にして、ゲッセマネの園でひとり祈られた「アバ、父よ」で始まる主イエスの祈りは、マルコ14:36に記されている。
また、そこに至るまでの歩みの中で何度も、御自身の父のことを弟子たちに語っておられる。祈る時にはこう祈れと、弟子たちに教えられた祈り(マタイ6:9ー)も、弟子たちの求めに応えるかたちで示された祈り(ルカ11:1−)も、「父よ」という呼びかけの言葉で始まっている。
パウロはここで、「神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。」と記している。主イエスが、神を父と呼ばれたその御子の霊、御子としてもっておられた霊を、神は、私たち一人一人の心の中に送り込んで下さった。そのことによって、私たちは神の前に、「アバ、父よ」と呼びかけて祈ることが許されている。それは、神が御子イエス・キリストにおいて、私たちを子として取り扱って下さっていることのしるしである。「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。(ローマ8:14−15)神を父と呼ぶことが出来るということは、私たちには、とても考えられないことである。それぞれに、父と呼んできた人はいるが、私たちのその父も含めて、神は真(まこと)の父として、私たちを愛して下さっているのである。
先回の宣教の中で、私たちには行くべき道が示されていて、そこを父の子として歩んでいけることの幸せと、また子としての務めを併せて思いたいということを語ったが、大事なことというのは、それが自分の現実に具体的なかたちをとらない限り、忘れられていくものである。
だからこそ、私たちは、イエス・キリストという愛のしるし、またそのイエス・キリストを語る聖書の言葉から離れないで、そこで受けたこと、示されたことを、毎日の生活の中で、少しでもかたちにしていくことを心掛けていきたい。
この頃は日記を書く人が少なくなったと言われるが、この近くに住んでいるある方は、自分はどんなに遅く、また疲れていても、日記は必ずつけると言っておられた。出来ることなら私たちも、まず、その日読んだ聖書の中で、自分の心に響いた言葉に線を引いていくことから始めて、日々の歩みを記していけるものとなりたい。