わたしたちの教会は、この15日で教会創立(組織)46周年を迎えたことになる。丁度水曜日に当たったこともあって、夜はそのことを覚えて集会をもった。OO記念日というのは大抵、5年を一つの節目として、45年、50年というかたちで覚えることが多い。そういう意味では、46年は中途ということになるが、私たちも教会も、5年単位で年を重ねるわけではないという、当たり前のことを心に留めて、信仰の先達たちのことと共に、日々の中での主の恵みに、改めて感謝を覚えたい。
ここで、「兄弟たちよ」と呼びかけられているのは、パウロが二回目の伝道旅行(紀元49年)でテサロニケに立ち寄った折、彼によって信仰に導かれた教会の人たちである。当時テサロニケは、ローマの配下にあったマケドニヤ州の首都で、大きな港と道路に恵まれた商業の盛んな街であった。パウロの伝道によって生まれたテサロニケの教会は、少数のユダヤ人と多くのギリシヤ人によって構成されていた。使徒行伝17章1〜3節に最初の頃の様子が記されている。
この手紙はパウロがコリントから書き送ったものであるが、先程読んで頂いた2:17〜18には、何度かテサロニケ行きを試みながら果たせなかったことが記されている。「サタンに妨げられた」(18c)とあるが、具体的にどのような妨げがあったのか明らかでない。19〜20節は、テサロニケの教会の人たちが、困難の中にありながらもたじろがないで、自分の伝えたイエス・キリストへの信仰に生きていることを聞いて(1:6〜8)、その喜びを表したものである。
パウロにとって、そうした彼らの姿は、あたかも苗木が若木になって、台風のような大きな力に揺れ動かされながらも、倒れないで立っている、しかも力強く空に向かって伸びている、そのようなイメージで映ったに違いない。「主イエスの来臨にあたって」とある。当時、「主イエスの来臨」は、いつのことか、また来臨を待たずして死んだ者はどうなるのか、ということが、教会の中での大きな関心事であった。「来臨」(パルーシア)は、もともと領主が自分の町を訪れることを表した、喜びと楽しみの「時」である。
「実際、わたしたちの主イエスの来臨にあたって、わたしたちの望みと喜びと誇の冠となるべき者は、あなたがたを外にして、だれがあるだろうか。」(19)と語る伝道者パウロの気持ちを、私たちも理解することが出来る。彼はIコリント3:6で、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させて下さるのは、神である。」と記しているが、神にあって一人一人が育っているのを見て、「あなたがたこそ、実にわたしたちのほまれであり、喜びである。」(20)と言ったパウロの気持ちが、私たちにも伝わってくる。しかし、また翻(ひるがえ)って、私たち自身が、どのように喜びをもって福音の種を身近かな人、愛する者に伝えて、その人が育っていくのを目にする幸せを共有し得ているかどうか、ということは考えてみるべきである。
先週は、関西学院の院長をしておられる、友人の山内一郎先生が、旅行の途中わざわざ立ち寄って下さり、Iテサロニケ4:1〜12から、「神に喜ばれる生活」という題で、感銘深いメッセージをして下さった。先生はその中で、「教会の標識」ということを語られた。標識というのは、目じるしとしてつけたもの(新明解国語辞典)で、いろんなところで見かけるが、例えば、海や山に行くと、ここから先は危険だとかいうことを知らせる標識が立っている。また、街中には、周辺の場所や方向を示す道路標識がある。
標識というのは、それを見ただけで、必要な情報がキャッチ出来る最も簡単な目じるしのことである。山内先生は、教会にはさまざまな標識があるが、(例えば宣教とか、バプテスマだとか、建物だとか等々)、教会の主要な標識は、その人を見ればここに教会が生きている、神さまが働いているということが分かる、そうしたクリスチャン一人一人の生き方にある、ということを語られた。心に映るのは、神の働きの中を生きているということである。しかも、それは、自分の力だけではなくて、神の愛とイエス・キリストへの信仰にその人が立っているということである。そういう意味で、私たちは、自分の人生の目標を、福音の標識、キリストの標識となっていくことに置くべきではないか。
何故なら、それは私一人のことではないからである。教会は、会費を払えば、あるいは申し込みさえすれば会員として登録されるOO会のようなものとは始めから異なる。もしそうであれば、あの人は変わった人だとか、困った人だと言われることがあっても、一応会員として通る。しかし、私たちは、イエスを主と告白する者の群れである。私たちは自分が信じ、信頼している方のことを語っていきたいと願うし、語れないまでも、主イエスが、「わたしの愛のうちにいなさい」(ヨハネ15:9b)「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。」(同14:15)と言われたその言葉を、どれだけ大切にしているかということにつながる。
私たちは、あまりにも日々のことに忙し過ぎるとおもうが、しかし、その現実は、多くの場合、どうしようもないと思われる。その中で、私たちは、神の御名を汚さないようにするとか、御名をあがめる時を持つということが大切である。
山内先生は、「神のみこころは、あなたがたが清くなることである」(Iテサロニケ4:3)というみ言葉から、ホーリネス、ホーリーライフということを語られた。この「清くなる」ことの「清」は原語から言ってむしろ「聖」と訳すべきこと、そしてこの「聖(きよ)さ」は、人間のあらゆる弱さ、醜さ、愚かさを超えた、神の力、キリストの恵みと結びついた聖さであって、人間が自分で精進努力して到達することの出来る一定の状態を意味しないということ。それは、何よりも、神御自身とキリストの聖さであって、それに与かって生きるということだと述べられた。やはりこれは、福音の標識としての私たちそれぞれの目指すべき目標であることを思う。
パウロは、Iコリント6:19〜20で、「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」と語っている。「自分のからだをもって」である。
日本では昔から、宗教を人間の内面というか、心の領域で考える傾向がある。しかし、聖書が語るのは、勿論、深い意味で心に関わるが、それは心の領域にとどまらない。むしろ、心で大切にしているものをどう具体化し、生活化していくかという生き方の問題を提示している。山内先生も、パウロは多くの手紙を残しているが、よく吟味して読むと、全体の7〜8割は、どのように生きるかという、そのことに集中していると語っておられた。私たちはこのことを改めて考える必要がある。
そして、このことを覚える時に、私たちは、欲しいままに、私たちの中に荒れ狂う物欲とか情欲とか、そのようなものから自由になることが出来るのである。自分からどんなに聖くなることを願っても、自分では出来ないものがある。しかし、自分から求めることにおいて、主がそれを助けて下さる。そのようなものとされているということである。「どうか、わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように。」という、パウロの祈りの言葉を、その思いを強く受けとめたい。
私たちの人生は、どんなに孤独な人であっても、自分一人だけのものではない。その意味では、まず人は神のものであるし、神のために、自分は何かをするべきものであるということを思わないといけない。神のために何かをすべきということの中には、礼拝を守る、献金をする、奉仕をする、教会のさまざまな活動を担うといったこともあるが、最も身近な人に対して、その人を理解しようとする心とか、その人を受け入れ、分かろうとする心とか、そのようなことも大切なのではないか。ホーリネスとか、ホーリーライフという非常に大きな課題が、私たちの「人」という小さな人生の中に与えられているということは、非常に大切なことである。
Iペテロ1:3〜4に、「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生まれさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。」とある。私たちは、使えない資産を受け継いでいるのではない。むしろ、その資産を活用しなさい、そのいのちの豊かさの中で生きなさいというのが、聖書の私たちに対するメッセージである。