この希望のゆえに

16わたしたちがローマに着いた後、パウロは、ひとりの番兵をつけられ、ひとりで住むことを許された。 17三日たってから、パウロは、重立ったユダヤ人たちを招いた。みんなの者が集まったとき、彼らに言った、「兄弟たちよ、わたしは、わが国民に対しても、あるいは先祖伝来の慣例に対しても、何一つそむく行為がなかったのに、エルサレムで囚人としてローマ人たちの手に引き渡された。 18彼らはわたしを取り調べた結果、なんら死に当る罪状もないので、わたしを釈放しようと思ったのであるが、 19ユダヤ人たちがこれに反対したため、わたしはやむを得ず、カイザルに上訴するに至ったのである。しかしわたしは、わが同胞を訴えようなどとしているのではない。 20こういうわけで、あなたがたに会って語り合いたいと願っていた。事実、わたしは、イスラエルのいだいている希望のゆえに、この鎖につながれているのである」。
使徒行伝 28:16-20

今日のところは、カイザリヤから囚人として船で護送されたパウロが、ローマに着いて間もなく、その土地のユダヤ人たちを前に、どうして自分がここに来たかを語るところである。彼は端的に「わたしは、イスラエルのいだいている希望のゆえに、この鎖につながれているのである」と、自分のことを紹介している。

パウロが言うこの希望というのは、当時のユダヤ人には分かりにくい事であった。しかし、これは今の私たちにも引き継がれている希望であり、また、ある意味で分かりにくい事柄である。何故なら、それはイエス・キリストの甦りということに関しているからである。甦りということで、以前、一人の姉妹が「自分は先のことを思う必要を感じていない。

今、幸せであればそれでいいと思っている。」ということを言われた。確かに、先で甦るということは、今の時点ではあまり具体性を持たない事である。それより、今、聖書を読む喜び、教会に来ることの出来る喜び、神との交わりがゆるされているという、その感謝だけでいい」と言われることも分からないわけではない。

しかし、復活の出来事、甦りのいのちということは、一つの教理、教えということでなくて、今のこの私の現実に聖霊が働いているということ、私たち一人一人が、既にイエスの甦りのいのちの中におかれているということなのである。イエスの甦りにおいて、神によって断ち切られない交わりが、死によって終わることのない交わりが備えられているということである。ヨハネ黙示録21:3に、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み・・・・」という言葉があるが、この「神が人と共に」ということは、先のこととしてあるのではなく、今、ここで一人一人にあるということである。

この3月、福岡に行った折、猪城先生の奥さまからお茶の接待をお受けした。(夫人は多くの弟子を持たれるお茶の先生である。)奥さまが、これは最高のお持て成しですと言われて、器を出された。その色合いとか、手にした感触、お茶を頂いた後の感じで、それがいいものだということは何となく分かってきたが、後で、120万程のものですと言われた時には、非常にびっくりした。これは教えられないと、分からないことである。

そのように、イエス・キリストが伝えようとされたことも、そのキリストに出会ったパウロの伝えようとした「この希望」も、私たちには聞かされないと分からないことではないかと、改めて思った。私たちは途方もない宝物を、言ってみれば大変な財産を神から頂いているのである。それは、パウロが、「わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。」(Uコリント4:7)と、福音にあずかっている自分たちのことを形容して言った言葉からも伺い知ることが出来る。

先週の始め、確か25チャンネルだったと思うが、一人の女性と家族のことがテレビで放映されていた。その人は、体の筋肉が次第に動かなくなっていく病気にかかっていて、少しでも動ける間に海を体験したいという思いで海に出かけた。彼女が自分の紹介として描いた、彩(いろど)りの美しい熱帯魚の絵が非常に印象に残ったが、彼女自身が、そういう自由に動けるものに憧れて(瞬間のような場面だったが)海に潜(もぐ)って上がるところが映されていた。彼女はその時手助けをしてくれたボランティアの青年と結婚した訳であるが、大きなハンディを持ちながら、彼女自身の願いとか希望が、自然な明るさで周りを協力させているという、簡単に言えばそういうドキュメントである。

今はバリ島で、景色の美しさと人との出会いを求めて、民宿を始めたということであるが、彼女をこのようにさせている「希望」というものを見て、私たちの中に、決して人に押しつけるというのではなくて、自分のありのままが周りを明るくし、なお、一つの方向を目指していくというようなものが、果たしてあるかどうかということを考えさせられた。

しかし、聖書は「あなたがたはわたしの宝となる」(出エジプト19:5)「わたしの愛のうちにいなさい」(ヨハネ15:9)という言い方で、私たちに対する神のいつくしみを語っている。ただ、それが私たちに分からない場合が多いということである。分からないだけではなくて、そのために自分が何をしようかというところに行っていない。それが、いわゆる私たちの姿ではないか。教会で伝え続けているのは、イエス・キリストによって備えられた神との関係、神からの関わりを私たちが知るということである。その中で、私たちが自分の人生をどのように選びとっていくかということである。

ある牧師から引退の通知を頂いた。その中に、私たちの希望は孫の成長だということが書かれていた。その先生の一面だと思うし、確かに幼い者とか若い人は、私たちに元気を与えてくれる。しかし、私たちには「四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。・・・・」(Uコリント4:8〜9)というパウロの言葉があるように、どんな時にも神のいのちの約束があることをいつも思っていきたい。そしてこの希望が、パウロにどれだけ力を与えたかということを思うと同時に、私たちもまたそれぞれの日々の生活の中で、その力を表現出来る者となっていきたいと思う。

しかし、それは自分で表現しようとして出来るものではない。大事なことは、私を超えた方の中に、自分を置いていくということである。この私が素材として用いられていくことを願っていく時に、私の知らない私自身が引き出されていくということでもある。

パウロは非常に個性の強い伝道者だったが、彼の手紙から伝わって来るのは、彼自身ではなくて、主イエスのことであり、その御思いであることを思う時に、私たちもそういう生き方を目指したいと思う。

1998年6月28日(日)召天者記念礼拝宣教要旨

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