6月第2主日を召天者記念礼拝として守るようになって、もう17年になる。教会員としてここで召された方たち、また、この教会で葬儀をされた身内の方たちのことを、「死者と生者との主」(ローマ14:9)の御前で共に覚え、賛美することを趣旨として定められたものであるが、「記念者名簿」は、先日召された吉田正代姉を加えて31名となった。今思うことは、先に召された方たちも、ここにいる私たちも、場所こそ違え、主に覚えられているという意味では、一つだということである。そして、主の御前での愛する者との再開の思いは互いの願いのように思う。私たちは例外なく、死という門を通らなくてはいけない。
聖書に出てくるイスラエルの偉大な王ダビデが、息子のソロモンに、「わたしは世のすべての人の行く道を行こうとしている。」と言って、最後の言葉を語るところが列王記上2章に記されている。「世のすべての人の行く道」と言うのは、まさに「死」を迎えようとしているということである。しかし、死というのは、必ずしも年老いて迎えるとは限らない。若くして、あるいは人生半ばにして、突然のように死を迎える人も多い。
同じダビデがまだ若い頃、彼が心を許していた王の息子のヨナタンに、「わたしと死との間は、ただ一歩です」と語るところがある。(サムエル上20:1-3)ある意味で私たちは、母の胎を出たその時から、既に死と背中合わせに毎日を生きていると言えるのである。問題はあまりにも自明なこの事実がなかなか分からない、そのようには思えないということである。死を忌むとか、考えない、あるいは触れようとしないということは、それが分からないということと、死を考えることが、生きる活力や必然に、直接結びつかないということかも知れない。
しかし、生と死とを切り離して考えられない以上、死を考えないわけにはいかない。しかも、死ですべてが終わる、解消するということではなくて、「第二の死」という、もう一つの死があることを聖書は記している。(ヨハネ黙示録2:11、他)ある方が「自分は小さい時から不幸だったし、今もそう幸せではない。いつも、自分の育った環境が自分の中に問題となってくる。」ということを言われたが、世の中には、親としても、どうしようもない時期があるし、また、どうしようもない現実のまま終わる人生も数多くある。
しかし、誰のせいにすることも出来ない、まさに、自分でそこをどう切り抜けていくか、どう生きていくか、ということが神の前に自分についての言い開きをしなければならない時に大切なこととなる。作家でノーベル文学賞をもらった大江健三郎氏に、光君という脳に障害をもった長男がおられ、その音楽的才能が一時期テレビでも放映されたことがある。その才能が引き出されたのにも、環境ということがあると思うが、ある時ひとりの婦人が、彼の妹に「もし、お兄さんに障害がなかったら」ということを言った時に、彼女は「私の家庭には『もし』と言う言葉はありません」と答えたということを聞いた。考えて見ると、「もし」という言葉は、いろんな意味で人を不幸にしている場合が多い。殆どそうではないか。
「もし、この相手でなければ」「もし、こんな子でなければ」「もし、あの時こうしていたら」等々、私たちには、沢山の「もし」がある。しかし「もし」という言葉は、まず自分の現実をしっかり受けとめるところから始めていないという意味で、人を不幸にさせる場合が多い。
聖書に帰って、ここに出てくるパウロにもシラスにも、「もし」ということはなかった、「もし」を越えたものが、彼らを強く支配していたように思う。公衆の面前で上着を剥ぎ取られ、むち打たれ、牢獄に入れられるという不当さに対する憤りはあったとしても、彼らはまず神に祈った。そして、さんびを歌いつづけたとある。
今回の個所を読むと、大抵の場合、その時、突然大きな地震が起こって牢獄の戸が開き、みんなの足の鎖が自然に解けたとか、家族共々バプテスマを受けたとか、そのようなところに心がとまるが、大切なことは、彼らがそのような状況の中で、まず神に祈り、さんびを歌いつづけたというところである。主の者とされているというその事実が、まず彼らを支配したということであり、そこが今日の宣教のポイントである。
主の近さ、その事実を受けるところで祈りが起こり、どんなことも主に覚えられているという感謝と慰めが、絶えざるさんびを引き起こす。そのところを、まだ、イエス・キリストを信じるに至っていない方々には感じ取って頂きたいし、既に、信仰を頂いている方たちには、この神の恵みの事実を、くらぶべきもない幸いとして、ますます受けていって頂きたいと思う。
今日は、この礼拝の後、少しお交わりの時をもって、「主の晩餐」を守り、CSの学びに入るが、テキストは同じで、主題が「牢獄の中で」となっている。人は不幸な状況に置かれると、自分が何か「牢獄の中に」閉じ込められたままの状態にいるような感情にとらわれる。が、パウロは、「わたしたちは、四方から艱難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。……」という言葉を記している。(Uコリント4:8)これは、例え四方を取り囲まれるという状況の中でも、必ず神は天窓は備えていて下さる。いつ、どのような時にも、上だけに開かれた窓があるということである。
私が強く心を捉えられて、折々に思い出すのは、「わたしが悩みのなかから主を呼ぶと、主は答えて、わたしを広い所に置かれた」(詩118:5)という言葉である。「広い所に置かれる」ということは、自分を離れて、自分や回りを見ることが出来るということでもある。自分をも振り返り、回りの人を力づけ支えていく、そのような力を与えられるということである。と同時にこのみ言葉は、新しい課題へと私たちをつき動かす。
ちなみに「悩み」と訳された言葉(ヘブル語でメツアール)は、拘束する、閉じ込めるという意味である。従って、「悩み」というのは、概念としては「狭い所」自由に身動きの出来ない状況を表している。私が今、この言葉を思い出したのは、パウロが伝道者としての自分の心情を、「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。・・・わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。」(ピリピ1:21〜24)と言った言葉が浮かんだからである。
私たちは、信仰を頂いているからと言って、いつも「広い所に」いるわけではない。パウロたちのことを考えても、現実に、牢獄にぶち込まれるという苦しみ、試練は避け難くあったし、違ったかたちでは、今日もある。只、「広い所に置かれ」ていることを知っている、あるいは、「広い所」への道筋を知っているということに支えられて、現実の「狭い所」を忍耐し、乗り越えながら生きているというのが、信仰者の姿ではないか。「広い所」を知らなければ、人生は私たちにとって、人間関係だけでも「狭い所」になってしまうのではないか。
今朝のテキストとの関連で言えば、私たちは、どのような現実も、共にいてくださる方の目とか思いの中で、始めて軽くされて生きることが出きる。その時、私たちは、ある意味で、自分や、自分の思いを意識することが出きるのではないか。パウロたちがまず、神に祈った、さんびを歌いつづけたというこの姿勢を、私たちは忘れないでいきたいと思う。
繰り返しになるが、先に召された方たちも、何度かそういう経験をなさって、後に残る方たちが、主との交わりに生きられることを望んでおられるということを思うし、また私たちも、身近にいる人たちにそのように心を使って、覚えあいたいと思うのである。