弟子たちは天を見上げて

1テオピロよ、わたしは先に第一巻を著わして、イエスが行い、また教えはじめてから、 2お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた日までのことを、ことごとくしるした。・・・・ 6さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。 7彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。 8ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。 9こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。 10イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて 11言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。
使徒行伝 1:1-11

使徒行伝を書いたのは、「ルカによる福音書」を記した医者のルカである。ルカ福音書の1章の始めに、「テオピロ閣下よ、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました。すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります。」とある。テオピロというのは、ローマの高官の一人で「使徒行伝」も、この人物に献じるというかたちで書かれたものである。只、ここで「テオピロよ」という呼びかけになっているのは、ルカとそれ程親しい関係になっていたということであろう。

使徒行伝は、主イエスの死後、その名がどのようにして、ユダヤ人社会から異邦人世界に伝えられていったかということを記したものである。ともすると私たちは、ここに登場する人物にとらわれて読んでしまいがちであるが、ここを読んでいく上で大切なことは、使徒行伝の全体を貫いて流れているもの、一人一人の行動のもとにあるもの、基盤になっているものが何かということである。

3〜4節に「イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、・・・・」とある。

キリスト教の歴史、初代教会の歴史は、弟子たちから始まるのではなく、甦えられた主が、40日にわたって弟子たちを訪れ、神の国のことを語られたことから始まるのである。

甦りの主が、弟子たちにお命じになったのは、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい」ということだった。「エルサレムから離れないで」ということは、彼ら、弟子たちが、まさにエルサレムを去ろうとしていたということである。イエスの十字架の死は、弟子たちを打ちのめし、絶望と不安に追いやった。エルサレムとは何か。それは、私たちにとって生き難い、とどまり難い現実をさしていると言える。甦りの主はそのような状況にあった弟子たちに、聖霊を頂くまで、そこを動くな、離れるな、そこに身を置いて約束のものを待てと言われる。聖書の待つというのは、先のもの、約束のものに対して、待ち望む、じっと待つということである。

昨晩開いた「ユダの手紙」に、「しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、(これは、イエス・キリストが備えて下さったものを土台としての意)、聖霊によって祈り、神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目当てとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」(20〜21)とあった。待つということは、期待して約束に備えるということであり、主の前に心を空しくする、何もないもの、何者でもないものとして自らを置くということである。

本来は、主との関係の中に、生活全体を置く、つまりそこで起こるもろもろの事柄は、主との関係で考えられるべきである。べきと言うより、それは、正に祝福につながる基本的なことである。私たちはパンによって生きているが、そのパンを得ていくいのちが、イエス・キリストにあって既に神の領域に移され、置かれたものであるということを知ることが大切である。

6節を見ると弟子たちは、主が語られた神の国の到来を取り違えて、「イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」と問うている。それに対して、時期や場合は父の権威に属すること、ただ聖霊があなたがたにくだる時・・・・と弟子たちの未来を予告した後、彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなったとある。

今朝の宣教題を「弟子たちは天を見上げて」とした。それは、この最後の場面で、彼らのそばに立った「白い衣を着たふたりの人」の大切な語りの前に記された「見よ」という言葉である。「見よ」とは、弟子たちには分からなかった事実を指している。このふたりの人は、弟子たちのそばに立っていたが、彼らにはそれが分からなかった。という点では、旧約の中でサラの召し使いハガルが、荒野で水が尽き、子供と死のうとした時、神が彼女の目を開かれて、実にそばに井戸のあることを示されたこと(創世記21:15〜19)や、エリシャの召使が、エリシャの祈りによって目が開かれ、神の軍勢を見ることが出来たという箇所(列王記下6:15〜17)に似ている。

とにかく、白い衣を着たふたりの人は、天に見入って立ったままの弟子たちに、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」と告げた。これは、私たちの時が、主の時の間に置かれているということである。主が来られる時のことについて、マタイ16章に「人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう」(27)とある。

つまり、私たちの人生は、生まれて、生きて、死ぬというそれだけのことではなくて、どう生きるか、あるいは生きたかということが、創り主である神の「時」の中で、計られるということである。

神を、イエス・キリストを知らない人でも、自分なりに自分の生き方を検討し、自分の良心に従ってより良く生きる生き方を考え、選び取っていくことを思う時、聖書を通して、「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることが、人間に定まっている」(ヘブル9:27)ことを知らされている私たちは、なおさらにそのことに心すべきではないか。また歩むべき方向を知らされていることに感謝したい。

1998年4月19日(日)主日礼拝宣教要旨

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